吹く風

人生万事大丈夫

カテゴリ: 過去の日記

2002年3月21日の日記です。

『道の達人』と、ぼくが名づけている人たちがいる。例えば歩道で、例えば店の通路で、その人たちは活躍している。
 何の達人なのかというと、彼らは、後ろを歩いている人から抜かされない達人なのだ。
 別に早歩きをしているわけではない。どちらといえば、ゆっくりと歩いている。達人を抜くスペースも十分にある。だけど、後ろの人は抜けないでいる。

 達人は、後ろの人が急いでいる時に、その技を披露する。こちらが右に行こうと思った時は微妙に右に寄り、左に行こうと思った時は微妙に左に寄る。曲がるかと思ったら立ち止まり、立ち止まるかと思えば歩き出す。その動きは変幻自在で、実に絶妙なタイミングで後ろの人を翻弄する。

 最終的にはこちらが大回りして抜くことになるのだが、その間のこちらの精神的疲労は、かなり大きなものがある。つまり、試合に勝つことは勝ったが、勝負に負けたと言うことである。
 一方の達人のほうは、そういうことをまったく意識してないのか、抜かれても平然としている。こちらが達人の後ろを歩いていることさえ気づいてないようである。
 しかし、だまされてはいけない。彼らの研ぎ澄まされた感覚は、こちらの動きを完全に把握している。しかも、心の中まで見透かしているのである。

 さて、道の達人とは、どんな人たちなんだろうか?
 仙人のような人たちなんだろうか?
 それとも修行者のような人たちなんだろうか?
 はたまた武術家のような人たちなんだろうか?
 どれも違う。『道の達人』は普通の人なのだ。普通のじいさんやばあさんであり、普通の主婦である。

 その普通のじいさんやばあさんや普通の主婦たちは、どこでこの修行を積んだのだろうか?  
 また、その修行法とはどんなものだったのだろうか?

 まずその修行法だが、この修行はどこででもできるものである。特に人通りの多い商店街やデパートやスーパーの中など、なるべく人の多く集まるところがよい。バーゲンなどで鍛えていくのである。
 次に修行法だが、特別な修行法があるのではない。自我というものを助長すればよいのである。つまり、わがままであれということだ。世間に対して、唯我独尊を貫くことである。

 それにしても、『道の達人』は言い過ぎかなあ。そんな立派なものではない。『歩道の達人』とか『通路の達人』にしておこうかな。
 しかし、どうでもいいけど、人の多く集まる場所ではさっさと歩いてくれよ。

2002年3月26日の日記です。

1,
 ぼくが東京にいた頃のこと、友人と新宿の地下街を歩いていた。
 新宿駅に近くまで来たときだった。突然、その友人が「あ、今日はいるなあ」と言った。
「え、何が?」
「有名人」
「有名人?」
「ほら近づいてきた」

 頭を抱え、「アー」とが「ガー」とかいう叫び声を上げながら、有名人氏は登場した。
 髪は伸び放題、着ている服は真っ黒に汚れている。
 その形相、ただ者ではない!
 その臭い、人間ではない!
 すごい存在感である。
 すごい威圧感である。
 彼のいる半径10m以内には誰も近づかない。
 というか、近づけない。
 まさに怪物である。

 ぼくがこれまで見てきた中で、最強の世捨て人だった。

2,
 1980年の4月、○○屋でアルバイトを始めた頃のことだ。
 ある日、えらく汚いスーツを着込んだ、三十代半ばくらいの御仁が店にやって来た。
 ぼくがそのスーツ氏を物珍しそうに見ていると、上司のHさんが近づいてきて、
「あの人、毎年この時期になったら来るんよね」と教えてくれた。

「手に紙を持っとるやろ」
 とHさんが言った。スーツ氏の手元に目をやると、少し大きめの半紙を持っていた。
「そこに何か書いとるやろ」
 なるほど、その半紙に、エンピツで何かメッセージを書いている。近寄って見てみると、そこには汚い字で『けっこん人生』と書いてあった。

「『けっこん人生』と書いてました」
「ああ、今回は『けっこん人生』か」
「何ですか、あれ?」
「よくわからんけど、毎回書いとることが違うんよねえ」

 Hさんの話では、そのスーツ氏は東大を卒業しているのだという。
「東大出て、何であんな格好してるんですか?」
「よくわからんけど、卒業した後に大企業に勤めよったらしいんやけど、あるとき頭を打って、ああなったらしいよ」

 ちゃんと目はしっかりしていたし、とても「頭を打っておかしくなった」と思えるような顔はしてなかった。おそらく、頭を打ったことで何かがはじけて、生きかたを変えたのだと、ぼくは思う。
 しかし、大企業のエリートから世捨て人への転身、さらには結婚願望。いったい彼は、どんな人生観を持つようになったのだろう。

2003年3月27日の日記です。

 以前、駅前に汚い身なりの乞食が座っていた。ムシロを敷き、その上でずっと土下座をしていた。
 彼の前には、空き缶が置いてあり、そこには小銭が入っていた。昔のドラマやマンガなどで描かれていた、乞食スタイルそのものだった。

 人の話によると、その乞食はいつも朝7時にやって来て、夜7時に帰るらしい。12時間労働である。

 ある時友人から、こんな話を聞いた。
「あの乞食の後を付けていった人がいてねえ、その人から聞いたんだけど、あの人、けっこう金持ちらしいよ」
 何でもその乞食は、表通りでは腰を曲げ苦しそうにダラダラと歩いているが、裏通りに入ると背筋をピンと伸ばして歩くらしい。

 彼の行き先は、その裏通りにある駐車場だった。
 駐車場に着くと、彼は、そこに止めていた黒塗りのクラウンの前に立ち、その車の鍵を開けた。そして、車の中に置いてあった荷物取り出して、駐車場内にあるトイレの中に入っていった。

 しばらく待っていると、トイレから一人の紳士が出てきた。横顔を見ると、先ほどの乞食だった。
 彼は車に乗り込み、その車を運転して颯爽と駐車場を出ていったということだった。
 乞食やってクラウンが買えるのだ。こうなれば乞食も立派な職業である。

 本宮ひろしのマンガ『男一匹ガキ大将』の中に、主人公の戸川万吉が乞食をやるシーンがある。最初はふんぞり返って座っていたが、だんだん謙虚になっていく。そこで何かをつかんだ万吉は、大きな人間に成長していったのだった。

 乞食を3日やったらやめられないという。やはり乞食には、やったことがある人にしかわからない何かがあるのだろう。

 長い人生、一度でいいから、何もかも投げ出して乞食をやるのも一興である。だけど、ぼくには出来そうにない。

2002年3月18日の日記です。

 ぼくは今、2匹の妖怪に取り憑かれて困っている。それは、『妖怪ねぶそく』と『妖怪はらまわり』である。この妖怪がいなければ、ぼくはどんなに健康的な生活を送っていることだろう。最近日記の更新が遅いのも、おなかの脂肪が気になるのも、実はこれらの妖怪の仕業なのである。
 さて、いったいその妖怪とはどんなものだろうか?

『妖怪ねぶそく』
 寝不足というと本人の不摂生に起因するものと思われがちだが、実はこれは妖怪の仕業なのである。パソコンやゲーム機には、必ずこの妖怪が潜んでいる。
 この妖怪に取り憑かれると、時間が経つのを忘れさせられてしまう。午前1時を過ぎても、2時を過ぎても、「まだまだ」という気分にさせられるのだ。

 特に日記を書いている人がこの妖怪に取り憑かれると、「集中力がなくなる」「アイデアが出なくなる」「雑になる」「やたらタバコが吸いたくなる」などといった症状が出てくる。

 また彼は、パソコンをフリーズさせたり、誤動作させたり、といったいたずらを繰り返す。そのためにますます寝不足に陥ってしまい、翌日、「無気力になる」「居眠りをする」「体調を崩す」といった弊害を生ずることになる。

 この妖怪に対する防衛策はただ一つ、パソコンやゲームの電源を入れないことである。これですべてが解決するわけだが、この妖怪に一度取り憑かれるとなかなか離れてはくれない。こちらの意思にかかわらず、パソコンやゲームの電源を入れさせてしまう。しつこい妖怪である。

『妖怪はらまわり』
 おもに文明国に生息する妖怪である。取り憑かれると、おなかの周りが膨れていくのですぐにわかる。
 彼は実体を持たないが、甘い物などを見つけると、取り憑いた人間の心に働きかけ、誘惑に勝てないようにしてしまう。よく「お菓子は別腹」などと言うが、実はこれ、『妖怪はらまわり』が言わせているのである。

「脳の疲れを取るんために、チョコレートを食べるんだ」とか「タバコの量を減らすために、キャンディをなめるんだ」などと、自分に対して苦しい言い訳をするようになるのも、この妖怪の仕業なのである。

 この妖怪は怠け者の人間が特に好きなので、「食っちゃ寝」生活をしている人は要注意である。この妖怪が取り憑き、繁殖してくると、糖尿病や高血圧といった厄介な病気を引き起こす。

 この妖怪に取り憑かれないようにしたいのなら、食べないことである。しかし、そうするわけはいかない。餓死王がやってくるからである。
 では、どうしたらいいのだろうか? 彼らが極端に嫌うのは、「運動」とか「ダイエット」とかいう言葉の実践である。これに勝るものはない。

 しかし、彼らも一度取り憑いたら離れないしつこい妖怪なので、一度取り払っても、油断するとまた繁殖してしまう。

 実は、この妖怪に対して非常に有効な呪文があるのだ。門外不出ではあるが、この日記を読んでいる方だけに、特別にお教えすることにしよう。
 その呪文とは、
「おんぶるぶるあぶとろにっくそわか」である。

 あなたも、これらの妖怪に取り憑かれてはいないだろうか?


2023年3月17日の日記です。
 22年経って、ぼくは『妖怪はらまわり』を退散させた。「食べない」「運動」それと呪文が功を奏したのだ。おかげで腹回りはスッキリしている。
 しかし、まだ『妖怪ねぶそく』は取り憑いたままである。

2001月3月16日の日記です。
 今日何気なくテレビを見ていたら、介護の番組をやっていた。(教育テレビだった)
 父親が娘の介護を受ける設定のショートドラマで、「困った、こんなときどうすればいい」という時に、先生のワンポイントレッスンが入る。という5分程度の番組だった。

 内容はともかく、その父親役を見て、ぼくは目を疑った。なんと、石立鉄男がやっているのだ。最近見ないと思っていたらこんな役をしていたのか・・。

 石立鉄男といえば、「パパと呼ばないで」や「雑居時代」で一世を風靡した俳優である。
 中でも雑居時代は、ぼくらの憧れだった。
「大原麗子みたいな女姓とあんな恋をしてみたい」と高校の頃友人とよく話していたものだった。
 主人公のフーテンジャック(石立の役名「大場十一」のニックネーム)の生き方にも憧れたものである。

 それが、なんと寝たきり老人とは・・。
 フーテンジャックが何やっているんだ! あんたにはそんな役は似合わん!


2002年3月16日の日記です。
 今日は朝から天気が良く、前方に見える山には雲ひとつかかってなかった。
「いい天気だ」
 と思いながら目を下におろし、家の前にある幼稚園を見た。
「あれ?」
 ぼくは慌てて携帯電話で日にちを確認した。紛れもなく本日は3月16日である。
「さて、今日は何の日だったろうか?」
 いつもと違う風景が、目の前にあったのだ。

 いつもと違う風景、それは幼稚園の掲揚台にあった。日の丸がはためいていたのだ。
「祭日だったかなあ? しかし、春分の日はまだ先だし」
 ぼくはもう一度日にちを確認した。
『2002年3月16日土曜日』
 新聞にもそう書いてある。

「3月16日、3月16日、・・・?」
 と口の中で何度か繰り返した。
「・・・そうか!」
 はたと気がついた。
「今日は『きみにあえてうれしいの日』だ」
 家の前の幼稚園は、卒園式の後のお別れの時に、いつも『きみにあえてうれしい』をかけている。だから、ぼくはこの日を『きみにあえてうれしいの日』と呼んでいるのだ。
「それで日の丸か」
 と一人で納得したのだった。

2002年3月15日の日記です。

1,
 いろいろな方言が、店の中で飛び交う季節がやって来た。
 店の近くには、大学が二つ、短大が二つ、専門学校が一つある。それに加えて多くの企業があるのだが、そういったところの新入生や新入社員や転勤族が、店に買い物に来ているのだ。
 学生や新入社員は九州や中国地方の人間が多いのだが、中には関西訛りの人がいたりする。一方の転勤族は日本各地からやってくる。この間は東北訛りの人がいた。
 いよいよ春本番になってきたようである。

2,
 ぼくは24年前に東京に出たのだが、当初「どこの高校の出身?」とよく聞かれていた。
「北九州の高校なんか言うたって知らんやろ」と言うと、
「えっ、こっちの人じゃないの?」と驚いた様子だった。
 ぼくは東京にいる時も北九州弁で話していたので、
「言葉を聴いたらわかるやろ」と言うと、
「それって方言なの?しゃべり方に癖があるのかと思ってた」という答であった。

 なぜこういうことを言われるのか、いつも不思議に思っていたのだが、そのうちいろいろな地方の出身者と知り合いになり、そういう人たちと話すことによってその疑問は解けていった。
 そのわけは、北九州弁のアクセントは標準語に近いということにあった。

3,
 福岡県には福岡市と北九州市という二つの政令指定都市がある。この二つの都市は約50キロほど離れている。この50キロの差が、発音をまったく違ったものにしているのだ。
 田村亮子がテレビに出た時にでも聞いてもらったらわかるだろうが、彼女には独特のアクセントがある。あれは福岡市東部の発音である。同じ福岡市東部に住む親戚も、そういう発音をしている。

 しかし、北九州の人間は「ヤワラちゃん発音」をしないのだ。
 これには理由がある。それは八幡製鉄所ができたからだ。
 製鉄所が出来るまでは、この地区は寂しい寒村であった。人口もかなり少なかったらしい。それが八幡製鉄所が出来たとたん、急激に人口が増えた。それ以前の何十倍もの人が、全国各地からこの地に集まったのだ。そこで言葉が変わっていった。
 おそらく創業当初は、いろいろな言葉で話すものだから、コミュニケーションもとりづらかっただろう。しかし、時間の経過とともにその言葉がだんだんまとまっていき、今の方言になっていったものと思われる。

4,
 ちなみに、ぼくの父は北九州の人間であるが、祖父は下関出身、祖母は地元出身だ。また母は名古屋生まれの大阪育ちで、祖父は徳島、祖母は岐阜の人である。
 ぼくの周りにはこれと似た組み合わせの人間が多くいる。
 そういう人の中には、親が話す言葉と、外で話す言葉が違って戸惑った人もいるのではないだろうか。

 ぼくが小学生の頃、ある単語が大阪訛りになっていて、「発音おかしいよ」と友達に指摘されたことがある。まあ、2,3の単語の発音だけだったから大したことはなかった。
 ところが、中にはすべての発音がおかしいヤツがいた。鹿児島のアクセントなのだ。本人は北九州の生まれだと言っていたので、鹿児島出身の親の影響が強かったのだろう。

 変わったところでは、普段は訛ってないのだが、本の朗読の時にだけ変に訛るヤツがいた。ぼくたちは彼が本を読むのを楽しみにしていたものだった。授業で彼が本を読むときは、みな一様に顔がにやけていたのを覚えている。

2002年3月13日の日記です。

 もうすぐ彼岸である。おそらく来週の公休は、墓参りで潰れるだろう。
 墓参りといっても、うちにはお墓がないので、寺の納骨堂に行っている。場所は市外で、車で20分ほどいった所にある。
 以前は市内の繁華街にあるお寺に納骨していたのだが、ある事情があって寺替えをしたのだ。

 その事情とは、寄付である。先々代の頃はまだよかった。先代の時代にそういう兆しが出始め、現住職になって寄付ばかり言ってくるようになった。
 寄付といっても桁が違う。やれ西本願寺の修復だ、やれ蓮如上人の生誕何百年祭だ、などと言っては何十万円単位の額を要求してくる。挙句の果てには、
「納骨壇が古くなったので、新しいものに替えませんか?」と言ってくるしまつだ。

 その納骨壇にも、特上・上・並のランクがあり、特上になると百万円を超えているものもあった。
 いくら立地がいいといっても、百万円も出すくらいなら新しい墓を建てたほうがまし、ということで「当分、今までので我慢します」との返事をしておいた。
 おそらく他の檀家も反対したのだと思う。いつの間にか納骨壇についての話は出なくなった。
 しかし小額の寄付の嵐は続いた。

 それからしばらくして、事件が起こった。
 寺の隣の家が火事になった。その寺は密集地にあったために、納骨堂に飛び火してしまい、内部までは火は回らなかったものの、屋根や壁を焼いてしまったのだ。
 当然こういう場合は、火災保険で賄うはずである。しかし、住職はそれでは足りないと思ったのか、納骨堂修復の寄付を募った。そして、そこにたち切れになっていた納骨壇の話を入れてきた。

 火事騒ぎからしばらくして、寺から郵送物が届いた。その中には、火事についての詫び状と、納骨堂修復の寄付のお願いを書いた書類、納骨壇のパンフレットが同封されていた。納骨壇のパンフレットには、「分割払いOK!」の文字が見えた。住職は火事にかこつけて、ついに商売を始めたのだった。

 さらに追伸書が入っていて、「今回特上の納骨壇をご注文された方には、優先的に納骨壇を阿弥陀様の並びに配置させてもらいます」と書いてあった。
 元々うちの納骨壇は阿弥陀様の並びにあった。その権利は、その寺に入った時に買ったものだった。そういう契約も、その住職は簡単に反故にするというのだ。

 では、今のままの納骨壇で充分という人はどうなるのか?
  そういう問に対しては、「古い納骨壇のかたは、末席にておまつりさせてもらいます」という答。つまり、貧乏人は相手にしないということである。

 追伸書は、さらに続く。
「今回納骨堂の一部だけを修復しようと思いましたが、さらに収容数を増やすべく、今までの1.5倍ほどのものに改築したいと思います。つきましては、その工事の間、遺骨のほうは各ご家庭にて丁重に保管して置いて下さい」
 さらなる商売拡張、しかも遺骨は自分で保管しろだ。

「今回だけでも80万円はかかってしまう。もしそれを払ったにしても、それだけではすまないだろう。こういう寺は、これに味を占めて、今後も寄付という名の商売を仕掛けてくるはずだ。この寺に遺骨を預けてはおけない」
 家族会議の結果、こういう結論に達し、現在の寺に移すことにしたのだった。

 同じ西本願寺派の寺なのに、こちらは寄付を言ってこない。
 一度「駐車場を整備しますから」という理由で寄付を言ってきたことがあるが、その時の額は4万円ほどだった。年間の管理費も4千円程度である。

 さて、以前の寺のことだが、十数年前に先代が悪業の報いで早死にしたため、長男の現住職が後を継いだのである。当時彼は大学生だった。そこで檀家が集まって、寄付金で大学に通わせようということになったのだ。
 そういういきさつも忘れて、檀家から金を巻き上げようとするとは。恩知らずもいいところである。そういう資質を見抜いて、阿弥陀様は火をつけたのかもしれない。
 あの郵送物を送った後に、その寺は急激に檀家が減ったそうである。

2002年3月13日の日記です。

 集中治療室は2階のナースステーションの横にあり、そこに置いてあるベッドで、十年前と同じように点滴を受けることになった。点滴は腕や腰が痛くなるのでイヤだったが、それを断ると病院を追い出されてしまう。
『まあ、今回はのどが渇いてないだけいいや』と思い、我慢することにした。

 その日の出来事を思い起こしながら、いよいよ眠ろうとした時、どこかの部屋から、ヒソヒソ声が聞こえてきた。
『何て言ってるんだろう?』と耳を澄まして聞いていると、その声はだんだん大きくなり、「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と吼えだした。
『何だここは!?』
 不気味さを感じながら聞いていると、声はだんだん小さくなった。
『何だったんだろう?』と思いながらうつらうつらしていると、またヒソヒソ声が聞こえてきて、さっきと同じようにだんだん声は大きくなり、「ナンマンダ!」と吼えて終わる。
 これが何度も何度も続くのだ。

『ナースステーションには宿直がいるのに、何で注意しないんだろう?他の患者の迷惑になるじゃないか』
そう思いながら、ぼくはもうひとつのことを考えていた。
『もしかして、あの声が聞こえるのは、自分だけじゃないだろうか』
 しかしこの考えを展開していくと怖ろしくなるので、なるべく考えないようにしていた。が、考えまいとすればするほど、よけいにそのことを考えてしまう。ぼくのほうが「ナンマンダ」と唱えたい気分だった。

 夜が明けて、ぼくは寝不足状態で先生の診察を受けた。
「もう大丈夫みたいですね。帰っていいですよ」
「ありがとうございます」 
 とお礼を言ったついでに、『ナンマンダ』のことを聞いてみようかと思った。しかしやめておいた。
「ああ、聞こえましたか。やっぱり・・・」
 などと言われたら、また気分が悪くなるからだ。

 車は前日、友人が運転して帰っていたため、JRで帰ることになった。
 3時間ほどかけて家に帰ったのだが、電車の音がずっと『ナンマンダ』と聞こえていた。

2002年3月4日の日記です。

 5年くらい前、友人や親族を乗せ、日帰りで北九州~阿蘇~黒川温泉~日田~北九州という、ちょっときついドライブをした。
 昼前に北九州を出て、昼間は阿蘇で遊び、やまなみハイウエイ経由で黒川温泉に向かった。黒川着は夕方、ここまでは順調だった。

 温泉に入ったあと、のどが渇いたのでジュースを買おうと自販機を探していると、道沿いに温泉水を飲ませてくれるところがあった。
「胃腸に良い」と書いてある。ぼくはその言葉につられて、ジュースの代わりにその温泉水を飲むことにした。ちょっとしょっぱくて変な味がしたが、胃腸にいいのだからと我慢して飲んだ。
 その後車に戻り、みかんなどを食べてから出発した。

 黒川から日田までの道はかなり曲がりくねっていた。そのせいなのか、後ろの座席に座っていた人が「気分が悪い」と言い出した。しかたなく車を停め、休憩することにした。
 しばらくして、その人が治ったというので、再び出発。

 相変わらず道は曲がりくねっている。今度はぼくの気分が悪くなった。しきりにゲップが出るのだ。黒川で飲んだ温泉水とみかんが混じった臭いがした。
 その臭いがぼくの気分をさらに悪くさせたが、あと少しで夕食なので、ぼくは我慢して運転を続けた。

 しばらくすると、日田市内に入った。レストランがあったので、そこで夕食をとることにした。
 車から降りると、すぐさまぼくはレストランのトイレに駆け込んだ。胃の中のものをすべて吐き出してしまおうと、指を突っ込んで出すだけ出した。おかげで気分は楽になった。

 テーブルに戻り、頼んでいたスパゲティがテーブルの上に運ばれた。あまり食欲はなかったが、何か腹に入れておかないと後が持たないと思い、フォークを手に取り、スパゲティを口に入れようとした。
 その瞬間だった。また吐き気が襲ってきた。ぼくは再びトイレに駆け込んだ。

 口から悪の元凶みかんが出てきた。と同時に下腹に痛みが走った。十数年前と同じく、上と下で垂れ流しだ。
「もう動けん!」と、ぼくはトイレに座り込んだ。

 しばらくして友人が呼びに来た。ぼくはトイレから這い出し、外気に触れようと、レストランの外に出た。
 すると、道路を挟んだ向かいに、わりと大きな病院があった。そこで診てもらうことにした。

 前回と同じように診察台の上に横たわり、点滴が始まった。
 しばらくすると気分が良くなってきたが、前のことがあるので、無理はしたくない。
 そこで先生に「入院させて下さい」と言った。
「えっ、入院?」
「はあ、このままじゃ帰れません」
「どこから来たんかねえ?」
「北九州です」
「北九州なら高速で1時間で着くじゃない」
「いいえ、1時間半はかかります」
「1時間半くらい我慢できるでしょう」
「出来ません」
「でも血行は良くなってきたじゃないですか」
「いえ、まだ気分が悪いです」
「おかしいなあ。じゃあ、立って歩いてみて下さい」

『このまま帰らされたら死んでしまう』と思ったぼくは、わざときつそうに立ち上がり、フラフラと歩いて見せた。
 その演技に騙された先生は、
「どうもまだ悪いようですね。しかたない、泊まっていきなさい。でも、ベッドは空いてませんよ」
 ということで、連れて行かれた所は、集中治療室だった。

2002年3月3日の日記です。

 小児科で紹介してもらった病院は、そこから車で5分ほど離れた場所にあった。
 病院に入ると、ぼくはボーっとしたまま診察台に横たわった。そして、生まれて初めての点滴を受けた。点滴は気持ちよく、体がだんだん温まってくるような気がして、そのまま眠ってしまった。

 30分ほどして目が覚めた。気分はすっかり良くなっていた。
 ぼくは先生に
「良くなったみたいです。もう大丈夫です。帰ります」
 と言い、立ち上がり診察室を出た。
 そのとたん、目の前が真っ暗になり、再び吐き気を催した。

 すぐさまトイレに駆け込んだ。すでに胃の中は空っぽになっていたから、出てくるのは胃液だけだった。
 その最中、突然下腹に痛みが走った。「下痢だ!!」と思うと同時に、「どうしよう」という思いがよぎった。胃液嘔吐はなかなか止まろうとしないが、この態勢のままでいると漏らしてしまう。気を緩めたらアウトだ。ぼくは、とりあえずズボンのベルトを緩め、神経を下腹に集中して胃液が収まるのを待った。

 ようやく胃液が収まりかけた。そのチャンスを逃さず、すかさず回れ右をして便座に座った。成功だった。電光石火とはこのことだ。この間1秒もかかってないだろう。
 しかし、こんな小さなことに感動している暇はなかった。下している時に、また胃液が出てきた。上と下で垂れ流しである。

 トイレから出た時には、もうフラフラだった。
「このまま帰ると死んでしまう」
 そう思ったぼくは、診察室に戻り、先生に「入院させて下さい」と言った。
「入院?」、と先生は困惑した顔をして言った。
「はい、今日はもうだめです」と言い、ぼくは先の状態を説明した。
「入院と言われてもねえ。ベッドも空いてないし」
「診察室が空いてるじゃないですか」とぼくは粘った。
「・・・。しかたない。今日一日泊まっていきなさい」
 先生はしぶしぶOKした。

 ということで、ぼくにとって人生初の入院が決まった。そして、最後まで付き合ってくれた仲間に「入院が決まった」と告げ、丁重に礼を言って、引き取ってもらった。

 さて、入院が決まったぼくは再び点滴を受けた。もう午後11時を過ぎている。
 先生は「もう帰りますけど、今日は決して水を飲んではいけません」と言った。
「ええーっ!!のどカラカラですよぉ」
「飲むのならお茶か白湯にしなさい。でも飲みすぎたらいけませんよ」
「ジュースはだめですか?」
「うーん、まあジュースならいいでしょう」
 そう言って先生は診察室を出ていった。

 残ったのは宿直の看護婦だけだった。
 ぼくが「のど渇いた」と言うと、看護婦は麦茶を持って来てくれた。ぼくは一気にその麦茶を飲み干した。これほど麦茶がおいしいと感じたのは初めてだった。
 ぼくは調子に乗って「もう一杯下さい」と頼んだ。
「もうありません」と言われた。
 しかし脱水状態の身、一杯ぐらいじゃ渇きは癒えない。
 そこでぼくは、「ねえ、ジュース買ってきて。奢っちゃるけ」と言った。
 看護婦は呆れた顔をしていたが、病院の廊下にある自動販売機でヨーグルトを買ってきてくれた。
「これ飲んだら寝て下さいね」と言って、看護婦は診察室を出て行った。

 買ってきてくれたヨーグルトは逆効果だった。無茶苦茶甘く、飲み終わってすぐにのどが渇いてしまった。「どうしよう」と思ったが、もう看護婦はいない。
 このあと朝まで、ぼくは『地獄の渇き』と闘う破目になった。のた打ち回りたくても、点滴で身動きが取れない。
 この時、点滴を受けている時にも動いていいというのを知らなかったのだ。そのことを知っていたらと、今でも悔やんでいる。

 翌朝、先生が来て「どうですか?」と聞いた。
 ぼくが「もう大丈夫みたいです」と言うと、先生は「そうですか。じゃあ、もう一度点滴をして終わりにしましょう」と言った。
 他の入院患者のように朝飯も与えてもらえず、通院患者が来る前にぼくは追い出された。渇きと空腹とでフラフラしながら、ぼくは家に帰った。
「こんな入院はごめんだ」と、ぼくはその時思った。

 しかし、似たようなことが約十年後に起こった。

2002年3月2日の日記です。

 ぼくは過去に二度入院したことがある。どちらも原因は、嘔吐と下痢だった。

 一度目は十数年前の夏だった。
 その日、ぼくは会社の仲のいい連中と、福岡の「海ノ中道海浜公園」に遊びに行った。
 朝、迎えに来た友人の車に乗り込んだ。6人乗りの車で、ぼくが乗ると満員になった。そこで困ったのが、荷物の置き場だった。どうしようかと迷った挙句、結局荷物はトランクの中に突っ込んだ。その荷物の中には弁当も入っていた。
 その日は、かなり暑く、その年で一番暑い日となった。太陽は車に照りつける。きっと冷房の入ってないトランクの中は、煮えたぎっていたはずだ。

 昼食時。その時弁当に異常はなかった。しかし、異常のない弁当が体の中に入ってから、体に異常がでてきた。
 帰りの車の中で、気分が悪くなった。
「悪い。ちょっと車停めて」
 ぼくは慌てて車を降り、近くにあった川まで駆けて行った。吐けるだけ吐くと、気分が楽になった。
「ごめんごめん。どうも車に酔ったらしい。もう大丈夫」
 車は出発した。5分ほどして、また気分が悪くなってきた。
「ごめん。また停めて」
 今度は草むらに吐いた。しかし、今度は気分は良くならず、かえって悪くなっていく。
 その後、何度か『車~草むら』を繰り返しているうちに、とうとうぼくは動けなくなった。

 ダウンした場所は、釣具店の入り口の前だった。
「もう動けんぞ!!」と、ぼくは大声で言って、大の字になって寝転んだ。
 店の人が出てきて「困ります」と言った。が、
「あんたが困っても、動けんもんは動けん!」
 と、ぼくは朦朧とした意識の中で言った。
 慌てて車の中から仲間が降りてきて、「すいません」と謝り、ぼくを抱えて車の中に連れて行った。
 彼らは「しんたさん、病院に連れて行くから、もう少し我慢しとって」と言い、病院を探してくれた。

 ぼくは車の中で寝入ってしまった。しばらくして「しかたない。ここにするか」という声がして、目が覚めた。そして、みんなに抱えられて病院に入った。そこで応急処置をしてもらった。
 先生は、日射病と食中りだと診断し、
「他の病院を紹介しますから、そこに行って下さい」と言った。
「先生、ここでいいですよ。治りそうだから、もう少しいさせてください」とぼくは頼んだ。
「そう言われてもねえ、ここは小児科ですよ」
「えっ!?」
 ぼくは返す言葉がなかった。しかたなく、病院を移動することにした。

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