吹く風

2022年01月

2001年7月25日

 小学校に通っていた頃は、買い食いを禁止されていたので、学校帰りに文房具以外の物を買うという行為はあまりやった憶えがない。先生に告げ口をする奴がいたので、控えていたのだ。

 中学に入ると、学校はそういう細かいことを言わなかったため、ぼくは毎日のように買い食いをやっていた。
 その中でも一番思い出深いのがコカコーラだ。当時いくらだったのかは忘れたが、学校帰りに駄菓子屋によってコーラを飲んでいた。今のように缶に入っているやつではなく、ビン入りだった。

 その店にはペプシコーラや7UPなども置いていたのだが、ぼくがコカコーラにこだわったのには理由があった。それは、キャッシュバックキャンペーンをやっていたからだ。
 王冠の裏をめくり、「○○円」という文字が出ると、その金額をその場でもらえるのだ。最高額がいくらだったのかは忘れたが、お小遣いの少なかった時代、これはありがたかった。
 また、コカコーラミニボトルのキーホルダーがもらえるのも嬉しかった。

 当時のぼくはけっこうクジ運がよく、二回にに一度はキャッシュバックかミニボトルが当たっていたような記憶がある。
 どのくらいの期間このキャンペーンをやっていたのかは憶えてないが、好評だったせいか、その後も何度かこの手のキャンペーンをやっていたようだ。

 そのうちキャッシュバックも飽きたのか、高校2年の頃は「ヨーヨー」などのグッズが当たるキャンペーンに変わった。
 この「ヨーヨー」がまた大ブームを起こした。各地でヨーヨーコンテストなども行われていたようだ。
 しかし、ぼくはヨーヨーが下手だったので、わざわざ「ヨーヨー」をもらうためにコーラを飲むようなことはしなかった。というより、その頃にはすでにコカコーラに飽きてしまっていた、といったほうが正しいだろう。とにかく、「中学時代にコカコーラを一生分飲んだ」と言っても過言ではないくらい飲みまくったからだ。

 それにしても最近のコカコーラは甘くなった。炭酸も以前に比べると、減ったような気がする。昔は「ゲップ」をすると涙が出たものだった。
 缶入りというのも味気ない。ビールにしてもそうだが、やはり王道はビン入りなのだろう。

 街できれいな女性が歩いていると、その辺にいる男どもはその女性を目で追っている。そして、「いい女やったねえ」などと言い合っている。
 以前はぼくもそういう男どもの一人だった。 ところが・・・
 若い頃はよく愛だの恋だのを、歌ったり詩にしたりしていたものだ。そうすることによって悶々とした日々の憂さを晴らしていたのだ。ところが最近は愛だの恋だのではなく、人生とか生活といった、ちょっと堅めの歌や詩に走ることが多くなっている。

「愛だの恋だのに走らなくなったのは、本当の愛だの恋だのを経験するうちに、そういうことを歌や詩にすることに照れを感じるようになったからだ」
 と、ちょっと前までぼくは思っていた。

「それは違うのかもしれない」
 と、考えるようになったのは最近のことで、愛だの恋だのに走るぼくの心をくすぐる女性が現れなくなっている、という現実に気づかされたのだ。
 とにかく長い時間、愛だの恋だのからぼくは遠ざかっている。(2013年2月19日)

「それも違うのかもしれない」
 と、思うようになったのは最近のことで、ぼくの中でそういう感情が枯れてしまっていることに気がづいた。
 ホームページを始める十年前まであった異性へのキュンキュン感が、ホームページを開設する少し前から徐々に薄れていき、上の記事を書いた頃にはキュンキュンのキの字もなくなっていたのだ。

 ではホームページを始める少し前に何があったのかと考えていたら、ある重大な事を思い出した。結婚したのがその時期だったのだ。ということは、結婚したことで異性への関心がなくなっていったことになる。
 やっぱり、結婚は墓場なんかなあ?

2001年9月20日

1、
 ぼくの通った中学校は、火葬場のすぐそばにあった。
 夏場は窓を全開にしていたため、授業中によく煙が教室に入ってきた。いつものことなので、ぼくたちは何も感じなかったが、転任してきた先生などは、
「おお、いい匂いがしよるのう」
 などと強がりを言って気味の悪さをごまかしていた。
 たしかに火葬場の煙というのはいい匂いがする。魚を焼く匂いだ。とくに昼飯前だと腹にこたえた。しかし、弁当に焼き魚が入っていると、食べる気はしなかった。

2、
 中学3年の時だったか、学校に時計台が出来た。何かの月刊誌に、そのことを書いて投稿した奴がいた。
『ぼくたちの学校に時計台が出来たんだ。これで遅刻者がグッと減ったんだぜ』などと書いていた。

 実はこの記事は嘘だった。そもそもぼくの通った中学は、遅刻者の少ない学校だったのだ。   
 それをこんなふうに書かれると、遅刻者の多い学校だと思われるではないか。さらに言うと、時計台が出来ただけで遅刻しなくなるような、単純馬鹿な生徒が多い学校とも映るではないか。

 しかも、この投稿記事が載ったのは、時計台が出来た翌月の雑誌だったのだ。そう、奴は未来予想をしていたわけだ。いったいどんな根拠を持って、この予想を立てたのだろう。

3、
 中学校に登校する時、いつも小高い丘の横を通っていた。その丘には防空壕の跡と言われている横穴があるのだが、小学生の頃に、その横穴に人が住んでいるという噂が流れた。その噂を聞いて以来、ぼくはその丘に気味悪さを感じていた。

 その防空壕の横には、赤い小さな鳥居がある。その鳥居の奥には階段があり、丘の上まで続いているようだ。今は知らないが、当時は夜になるとその階段に灯りがともり、不気味さを醸し出していた。

 朝夕、そこを通るたびに、不思議に思っていたことがある。それは、その鳥居をくぐる人を一度も見たことがないということだ。周りに聞いても、みな同じ意見だった。

 ある日のこと、新聞配達をしている友だちが、
「朝5時ごろ、あの鳥居の前を通ったら、行列が出来とった。みんなうつむいていて怖かった」と言った。どんな人がお参りしていたのかと聞いたら、
「年寄りから若いのまでおった。新聞屋のおいちゃんから聞いたんやけど、あそこは孤狗狸さんにとり憑かれた人が行く神社らしいぞ」
「気味が悪いのう。もうあそこ通るまいや」とみんなで言い合った。
 しかし狐狗狸さんに取り憑かれた時は、そこに行けばいいということはわかった。いまだに利用はしてないが。

4、
 小学校の時から成績がトップで、いつも一学期の学級委員をやっていた奴がいたのだか、中学3年の時、その秀才と同じクラスになった。

 修学旅行で風呂に入った時のこと。
 クラスごとに風呂に入ったのだが、みんなでふざけていると、その秀才の腰に巻いていたタオルがパラッとはずれた。秀才は慌ててタオルを拾い上げたが、ぼくはしっかり見た。
 そして『秀才でも生えるんやなあ』と変に感心していた。

5、
 中学3年の時、受験勉強と称して、ぼくはある勉強を必死にやっていた。それは、国語でも英語でも数学でも社会でも理科でもなかった。超能力の勉強だった。
 その勉強のやり方は、目の前にろうそくを立て、「消えろ」と念じながらその炎をジッと見つめるというものだった。『火が消えたら、きっと合格する』と、真剣にやっていたのだった。

 さすがに火を消すことは出来なかったものの、かすかにではあるが火を揺らすことは出来た。それは超能力の勉強を始めてからおよそ3ヶ月後、受験の前日だった。
 結局その3ヶ月間、他の勉強はやらなかったが、なんとか合格することができた。今でもそれは超能力のおかげだと思っている。

 さて、その後超能力はどうなったのかというと、受験日の翌日から、まったく修行をやらなくなったため、火を揺らすことすら出来なくなった。
 ただ、ジッと見つめてばかりいたので、まばたきをしない癖が付いてしまい、後年のドライアイの原因になってしまったのだった。

 最近、人の名前が出てこないことが多くなった。そのほとんどが芸能人の名前で、
「○○というドラマの主役の人・・。えーと、名前何だったかなあ」
 顔はちゃんと覚えているのに、その人の名前が出てこないのだ。

 結局スマホで調べたりして解決させるのだが、自分の中で解決させたわけではないから、どうもスッキリしない。
 まあ、今のところ、身近な人の名前が出てこないわけではないので、そこまで深刻ではないのだが、そうなる原因を突き止めておかないと、この先もこんなことに悩まされることになる。

 そういえば今月に入ってから、母の物忘れが酷くなっている。先月まで一人で何でもやってきた人だ。いったい何がどうなったのかと観察していたら、あることに気がついた。

 母の物忘れは、主に大学病院関連のことが多い。例えば予約している日時だとか、受付の手順だとか、その日に行く病棟(内科と血液内科の二つの科を別の日に受診している)だとか、またその科がある場所だとかだ。一方、かかりつけの病院に行く日だとかは、ちゃんと覚えているのだ。
 大学病院関係には、いつもぼくが付き添いで行っているので、手続きはぼくがやっている。母はいつも横で見ているだけだ。つまりそのことは、ぼくに任せているので、自分で考えなくてもいいということになる。元々自分で考えてないから、本人にとってはどうでもいいことになり、覚えることもしなくなる、ということだ。

 先の、ぼくの場合もそれと同じで、実生活では、ドラマの主役の名前などどうでもいいことだ。わからなくてもスマホが解決してくれるから安心だ。かくてぼくは、主役の名前を忘れてしまうわけだ。
 スマホとの距離をちょっとおいてみるか。

2002/04/10

 休みの日、昼過ぎに「ピンポーン」とチャイムが鳴った。出てみると、そこには小太りのおっさんがいた。
「はい、どちら様でしょうか?」
「こんにちはー、読売新聞ですけど」
 新聞の勧誘だった。ぼくは、こういう時の応対は、いたって冷静である。
「ああ、読売さんですか。それは残念なことをしました」
「え?」
「うちには、巨人ファンはいませんからねえ」
「ホークスファンでしょ。よく言われるんですよ。でも、読売新聞はホークス情報も満載ですよ」
「西スポよりも?」
「いや、西スポさんほどじゃないけど・・・」
「残念ですねえ。うちは西スポなんですよ」と、お引き取りいただいた。
 ちなみにうちで取っているのは、西スポではなく産経新聞である。

 新聞の勧誘は実にしつこい。
 だいたい新聞というのはどこも似たり寄ったりだから、よっぽど個性的な新聞の名を持ち出さないかぎり、相手は引いてくれない。つまり、毎日新聞の勧誘に来た時に、「うちは朝日ですから」ではだめだ、ということだ。
 ぼくは毎日新聞が来たときには、
「すいませんねえ、うちは日経とってますから」と言うことにしている。だいたいこう言えば、相手は引いてくれる。
「一般紙も読んでみませんか?スポニチもお付けしますよ」と突っ込んでくることもある。そういう時は、
「うちには三紙も取る余裕なんてありませんよ。それに古新聞を置く場所もないし」
「古紙は回収していますよ」
「じゃあ、荷造りしてくれますか?」
「いや、それは・・・」

 休みの日に家にいると、いろいろな人がやってくる。
「私、O教会からやって参りました」
 ドアを開けてみると、そこには子連れの女性が立っている。
「なんでしょう?」と聞くと、聖書を買ってくれという。その子供までが
「お願いしまーす」と言う。
「申し訳ありませんけど、うちは代々浄土真宗の家系でして」と言ってお断りする。
 それでもしつこく食い下がる人には、「パーン」と手を叩き、
「さて、どちらの手がなったでしょう?」と質問する。相手は戸惑う。すかさず、
「これがわかったら買いましょう」と言う。相手は気味悪がって帰っていく。ぼくは合掌して送り出す。
 実はこの「パーン」は、禅問答のひとつである。答はぼくにもわからない。勧誘撃退だから、何でもありだ。相手が何か答えたら、「違います」と言うだけである。

 そういえば、彼女たちは以前、機関紙を売って歩いていた。
「いりません」と言うと、
「お金はいいですから、読んで下さい」と言って、それを置いていった。
 ただで置いていくくらいなら、ポストに入れればすむことじゃないか。わざわざ「ピンポーン」する必要はない。神に仕える身の人のすることは、よくわからない。

 新聞、宗教の他にも、互助会、生命保険、物売り、共産党など、さまざまな人がやってくる。そのつど応対も変わるのだが、一度失敗したことがある。
 第一生命が来た時である。
「こんにちは、第一生命です」
「ああ、第一生命さん。ぼく入ってますよ」
「そうでしたか。それはすいませんでした」と言って帰った。
 後日、その人がまたやってきた。
「こんにちは、第一生命です」
「ああ、どうしたんですか?」
「帰って調べたんですが、しんたさんの名前はありませんでしたよ」
「え、調べたんですか。しょうがないなあ」
「顧客を検索したら、すぐにわかりますよ」
 そう言って、彼女は笑いながら帰っていった。
 

2002年4月21日

 K-1を見ながら書いている。ぼくはK-1のことをよく知らないので、テレビでK-1を見るたびに、「これとキックボクシングと、どう違うんだろう?」と思っている。またその連想から、沢村忠やロッキー藤丸の名前を思い出している。

 キックボクシングは、ぼくが小学校高学年から中学にかけて、一大ブームを起こした格闘技だった。その中でも、沢村忠はひときわ目立っていた。プロレスでいえば力道山、野球でいえば長嶋茂雄、ボーリングでいえば中山律子的な扱いの人だった。いわゆる時代の寵児である。
 この人の半生をつづったアニメ『キックの鬼』は、クラスの男子全員が見ていた。また、カネボウハリスが発売していた『キックガム』の点数を集めたらもらえるメダルシールは、当時の男子の憧れの一品だった。他にも、チャンピオンベルトをもらえる企画などがあった。

 沢村忠といえば、いつも思い出すことがある。
 キック全盛の頃、ぼくは柔道を習っていた。町道場に通っていたのだが、そこの先生の思い出である。
 先生は柔道家というよりも、実業家タイプの体格をしていた。事実、ある会社の創業者だった。
 柔道は八段で、他にも数々の古武術の段位や、柔道整復師などの国家資格を持っていた。今も先生の名刺を持っているが、名刺にはそういう肩書きばかり書いている。

 さて、この先生、肩書きどおり腕も達者だったのだが、口も実に達者だった。確かに実績のある方で、勲章をもらったり、新聞雑誌に紹介されたりしていたのだが、言うことが大きかった。いつもいつも、自慢話を聞かされたものだ。時には、
「力道山は先生が教えた」
 などと、大それたことを言うこともあった。

 ある日のこと。突然先生が
「今度、沢村忠が先生を訪ねてくる」
 と言い出した。ぼくが、
「先生、沢村忠知ってるんですか?」
 と聞くと、先生は、
「沢村忠はなあ、先生の弟子だ」
「沢村忠は、先生のところに泊まるんですか?」
「おう」
 それを聞いていた全員が、「すげえ」「会いたい」などと言っている。もちろんぼくも会いたかった。
「で、いつ来るんですか?」
「○月×日の土曜日に来る」
「え、本当ですか?」
「おう」
 ということで、みんなその日を楽しみに待っていた。ぼくは学校で柔道を習っていることを、誰にも言ってなかったので、沢村忠の件も口外しなかった。しかし、他の人はその通っている学校でかなり広めたらしい。そのため、沢村忠に会いたいという理由で、道場に入門する者も出てきた。

 さて、その○月×日土曜日。土曜日の練習は、午後3時から5時までだった。しかし、その日はみな学校が引けてから、すぐに道場にやってきた。1時半には、大半が集まっていた。誰もが、沢村忠を見たい一心だったのだ。
 しかし、練習が始まる、で、沢村忠は来なかった。練習が始まったが、誰も真剣にやっているものはいない。いつ沢村忠が来るのか、そればかりを気にしていた。
 途中で先生がいなくなると、「沢村忠が来たんやろうか?」などと言っている。しばらくして先生が戻ってくると、「先生、沢村忠は来ましたか?」などと聞く。
 結局、沢村忠が来ないまま、練習は終わった。誰もが、
「沢村忠、何しよるんかのう」
「おれ、ちょっと待っとこう」
 などと言っている。
 5時半を過ぎても誰も帰ろうとしない。
「何をしよるんか。早く帰りなさい」と先生が言った。
「でも、沢村忠がまだ来てないけ・・・」
 と誰かが言うと、先生は
「沢村忠から、さっき『夜中になる』と連絡があった」
 と言った。しかたなく、みんな帰って行った。
 しかし、ぼくは残っていた。道場の奥に、こそーっと隠れていたのだ。
 午後7時が過ぎた。まだ来ない。
 午後8時になった。もうだめだ。
 結局あきらめて、家に帰った。

 次に道場に行った時のこと。誰もが
「しんた君、沢村忠来た?」
 と聞いてきた。そこでぼくは
「おう、来たよ」と答えた。
「あーあ、待っとけばよかった」
「握手もしたし、サインももらった。それと、いっしょに風呂にも入った」
「えっ、風呂にも入ったと。いいのう」
 午後8時まで待ったのである。このくらい言っておかないと、気がすまない。

 しかし、本当のところはどうだったんだろうか?ぼくは、道場にいた先生の孫に訊いてみた。
「おい、本当に沢村忠は来たんか?」
「さあ、ぼく知らんよ。ちょっと、お母さんに聞いてくる」
『お母さん』、先生の長女である。同じ家の敷地内に住んでいたのだ。
 しばらくして孫が戻ってきた。
「来てないらしいよ」
 話を聞いてみると、道場の練習生が、あまりに「沢村忠、沢村忠」と言って騒ぐので、先生が妬んでそういうほらを吹いたんだろう、ということだった。

 そんな先生も、十数年前に他界してしまった。今では懐かしい思い出である。
 K-1で思い出したが、今度極真の国際大会を福岡でやるらしい。
 極真と言えば、空手バカ一代『大山倍達』。彼も先生の弟子の一人である。もちろん、先生の中では、であるが。
 

2002年02月23日

 ぼくの母親は、以前シルバー人材センターの仕事をやっていたのだが、その時によく
「大企業や公務員出身の人ほど仕事をしない」と言っていた。
 ことあるたびに「自分は以前○○で働いていた」と自慢し、ほかの人を見下す態度をとるらしいのだ。だんだんその人は浮いた存在になり、最後には辞めていくのだそうだ。
 きっと、取引先や下請け業者をあごで使っていく過程で、働くという意味を履き違えていったのだろう。

 まあ、そういう企業の体質は、いかんともしがたいものがあるのかもしれないが、せめて『実社会』に出た時の最低のマナーくらいは勉強してほしいものである。
 こういう人たちに限って、「大企業(公務員)出身だから私は偉い」と勘違いしている人が多い。
 まずここから改めなければならない。
「企業はその人の人格や能力を表すものではない」
 ということを知る必要があるだろう。

 これと似たようなもので、出身大学のプライドというのもある。
 官僚の中には、「東大卒以外は人間ではない」と思っている人間が多いと聞く。こういう人たちも、
「東大に入ったのは、東大に入る才能を持っていたというだけのことで、決してそれは社会的な能力や、人物の大きさを測る尺度にはならない」
 ということを覚えておいたほうがいいだろう。
 学校の成績がいいことを「頭がいい」「偉い」と表現する風潮は、もういいかげんにやめてほしいものである。そういう風潮が馬鹿を生んでいるのだから。
 

1、体の具合
 今月23日に遭った事故の影響なのだろうか、肩から背中にかけて違和感がある。
 脳梗塞の後遺症で右肩に若干痺れた感じが残っているのだが、事故の翌日からその痺れが痛く感じるようになった。
 またスワイショウの効果で治っていた肩こりが、ぶり返した。
 同乗者の嫁さんも、背中から肩にかけて違和感があると言う。

 ということで、昨日、夫婦二人で近くの整形外科に行き検査してもらった。レントゲンを撮るなどして調べ、二人とも『むちうち症』という結果が出た。

 医者は言った。
「運動はしばらくやらないで下さい」
「しばらくって、どのくらいの期間ですか?」
「一ヶ月位です。その間安静にしておいて下さい。それがこの症状の治療です」
「一ヶ月もですか?」
「はい」
「ラジオ体操ぐらいなら、やってもいいですか?」
「ラジオ体操もダメです。やるなら、腕を振る程度にしておいて下さい」

 じゃあ、スワイショウ(腕を振るだけの運動)はいいわけだ。しかし、スワイショウを一日二千回やっていいのかとは聞かなかった。もし「ダメ」と言われたら困るからだ。これをやめたら、良い具合に改善されている体が、また元に戻ってしまう。

 その後、痛み止めや貼り薬を処方してもらい、一週間後に再診する約束をして、ぼくたちは病院を後にした。

2、車の具合
 さて、それから向かったのは車の修理工場だった。先方の保険会社が指定した工場で、そこは市外にあった。
 当初、車を取りに来てくれることになっていたのだが、仕事中に来られると困るので、休みの日にこちらから持って行くことにしたのだ。

 工場に着くと、早速そこの社長が出てきた。彼は、ぼくの車を一目見るなり、
「これは酷いですねえ」と言った。
「えっ、そんなに酷いんですか?」
「ええ、かなり激しくぶつかってますよ。ハッチバックドアを変えなければなりません。それと下の方にも亀裂が入っているし。おそらく下の方から突き上げるような形でふつかったんでしょうね」
「そうなんですか。で、一週間くらいで直りますか?」
「いや、最低その倍はかかりますね」
「半月ですか?」
「ええ、それも部品がすぐ手に入ればの話です」

 後ろがちょっとへこんでいるようにしか見えないから、すぐに直ると思っていた。そうか、そこまで深かったのか。道理で『むちうち症』になるはずだ。
 しかし半月以上もかかるのは痛い。確かに代車は借りられるのだが、その代車というのが3ナンバーなのだ。仕事で狭い道を走ることが多いので、これは困る。

「もっと、小さな車はありませんか?」
「そうですねえ、週末になればフィットが戻ってくるんですが」
「ああ、そちらのほうがいいです」
 ということで、週末になればフィットに変わる。それまでは裏道などを走らないで、幹線を走るようにしよう。

『筆不精』という記事に、筆不精になったのは30歳を超えてからで、20代までは頻繁に手紙を書いていたと書いたのだが、その下書きを紹介した記事を見つけた。

古い手紙

 その1
完全に風邪を引きました。
風邪薬は胃をこわすそうなので、毎日お酒の世話になっています。
これだって胃に悪いのにね。
出かける前にまず一杯、帰ってからうがい代わりに一杯、食前に一杯、食後に一杯、寝がけに一杯。
一升瓶なんて、すぐに空くものですね。
でも、最近は少々うんざりしています。
やはり、健康な時に飲む酒が一番おいしいです。
それも飲み過ぎないように飲むのがね。・・・

 上に書いたのは手紙の下書きである。
 80年の冬だったと思う。あの頃、出かける前は朝食代わりに必ず酒を飲んでいたし、下宿に戻ると一升瓶を片手にうがいをしていたんだった。
 しかしこれを見ると、この頃から病院に行って風邪を治そうという考えは持ってなかったようだ。
 ところで、この手紙はいったい誰に出したんだろう?今となっては、まったくわからない。 

その2
・・・、最近ぼくは『カバ丸』と呼ばれています。
別冊マーガレットの『伊賀のカバ丸』にぼくが似ているそうなのです。
・・・・
この間胃けいれんを起こしたと言いましたが、それ以来用心のためにチャンチャンコ(前開きベスト)を着て外出するようにしたのです。
ところが、それを見た知人の一人が、「私の知り合いに、チャンチャンコを着たカバ丸がいる」とその友人に話したそうです。
それを聞いた、その友人が「一度見てみたい」と言ったとのことで、今日、「今度の土曜日に見に来るから、よろしくね」と言われました。
世の中暇な人が多いですね。
でも、ぼくは見せ物ではない。
土曜日はチャンチャンコを着て出ないようにします。・・・

 これも誰に宛てたものかわからない。
 胃けいれんの話が出ているから、書いたのは79年の秋頃だと思う。
 そういえば、あの頃『カバ丸』と呼ばれていた記憶がある。
 チャンチャンコは今でも覚えている。新宿の丸井で買った物である。ぼくのお気に入りの一着で、いつもそれを羽織っていた。東京から離れる時に横須賀の叔母にあげたので、今は手元にない。

その3
三人とも、元気にしていますか。
ぼくはもう25歳になります。
最近、白髪も出てきたようです。
相変わらず独身で、暇さえあれば飲みに行っています。
同級生で結婚した人もかなりいるのですが、人は人と割り切って、気楽にやっています。
早いものですね。
東京を離れてから、もう三年になります。
あれからぼくもいろんなことがあったのですが…
例えば、長崎屋にいたとか、フリーライターであったとか、セールスマンをやっていたとか。
結局、今の仕事に落ち着いているわけです。
あ、今は楽器屋さんです。・・・

 これは福島の友人に宛てたものである。その友人は、福島に戻ってから、東京時代につき合っていた人と結婚した。
 三人と書いているから、もうその頃には子供が一人いたことになる。25歳と書いているから、20年前である。ということは、その子ももう20歳を過ぎているのだろう。
 その友人はぼくより2歳年下だったから、今43歳か。もしかしたら、もうおじいさんになっているかもしれない。もしそうだったら困るなあ。ぼくより年下のじいさんなんて考えたくない。
 それに、この先、その友人と会うようなことがあった時に、孫を抱きかかえながら「しんたさん、孫はかわいいよ」などと言い目を細められたら、どう返事していいのかわからないじゃないか。
 ところで、ぼくより若い男を「おじいちゃん」と呼ぶその孫は、頭の真っ白なぼくのことを果たして何と呼ぶのだろう。 (2003/01/19)


『その3』は、例の連絡先がわからなくなってしまった友人に書いたものだ。
 この記事を書いたのは、2003年なのだが、その10年前にぼくは会津に遊びに行っている。記事には三人と書いているが、その時には子供が二人増えており、総勢五人になっていた。
 本当にどうしているんだろう。連絡先がわかったら、おいしい明太子を送ってやるのに。

 手紙を書かなくなって久しい。20代くらいまでは頻繁に書いていたのだが、30歳を超えた頃からは、年賀状すら書かなくなった。
 理由は特にない。単に筆不精になっただけだ。

 こちらが出さないから、相手からも来ないのだが、それで何の問題はなかった。
 ただ、それゆえに困ったことが一つだけある。それは、東京時代に一番仲がよかった友だちの連絡先がわからなくなったことだ。

 彼とは筆不精になってからも、やりとりをやっていたのだが、ぼくが引っ越した時、転居通知を出し忘れていたのだ。それに気がついたのは、およそ一年後だった。
『最近、あいつから連絡がないな』などと思っていた時、『そういえば・・』となったわけだ。
 しかしその時は、『用がある時は、電話すればいいや』ですませていた。

 それから何年か後の正月、久しぶりに彼の声を聞こうかな、と電話したところ、
「おかけになった電話番号は現在使われておりません」というアナウンスが流れてきた。
 着信拒否の出来る時代ではなかった。ということは、相手も引っ越したということか。

 そういえば、東京にいた頃に彼は、
「最終的に実家に戻って家業を継ぐ」と言っていた。ということは実家だ。そこで彼の実家に連絡してみた。ところが、こちらも同じアナウンスなのだ。
 彼が実家に戻った後に、家族全員で他の場所に引っ越したのかもしれない。

 ということで30年近く、ぼくは彼と連絡を取ってない。彼の郷里に行って探せば何とかなるとは思うのだが、福岡から彼の郷里である会津まではけっこう遠い。『探偵!ナイトスクープ』にでも頼もうかな。

 このブログの概要を、ブログ初期に使っていた、
『いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!』
 に変えた。

 この言葉のもととなった記事がこれだ。
仏教で言うところの『生老病死の苦』、これらは決して『苦』ではない。
ぼくにとっては、すべてネタなのである。
『生きる』ことと向かい合うことによって、ネタは生まれる。
『老い』を『笑い』と受け止めることによって、ネタは広がる。
『病』という得がたい経験は、すべてネタになる。
『死』は一生に一度しかない、貴重なネタ元だ。
これらを無駄にしてはならない。
これらを客観的に見ることによって、人生に余裕が出来るだろう。
またそのことが、ネタにつながる。
『生老病死』に悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう。


 今のところ、ぼくはこの路線で進んでいる。
 常に『老い』を『笑い』のネタとして扱っているし、一昨年脳梗塞で入院した時はその得がたい経験をネタにした。今回の自動車事故もネタにしている。そういうふうに出来るのは、すべて『生きる』ことと向かい合っているからだと思う。
 さて、これからぼくは、母親を病院に連れて行かなければならない。これもネタにしようかな。
 

このページのトップヘ