吹く風

2019年06月

「誰のおかげで飯が食えると思っとるんだ!?」
かつてぼくは、ある大手企業子会社の販売部門で働いていたことがあるのだが、そこでよく聞かされた言葉だ。
誰がそういうことを言うのかというと、親会社の社員さまたちだ。何かといえば子会社の人間を蔑んで、初対面から「お前」呼ばわりした上で無理難題を突きつけてくる。

世間知らずの兄ちゃんたちならともかくも、いちおう肩書きの付いた人たちがやるからしゃれにならない。
気に入らないことがあると、「どういう教育をしているんだ」と当本社にクレームをつけてくる。おかげでこちらは本社から、長いものには巻かれろ的な教育を受ける羽目になる。

そうなると面倒なので、誰も奴らに逆らわなくなる。すると奴らは調子に乗ってますます態度がでかくなる。横柄に値引きの強要をしてきては、「この会社の社長は何々君だったな」と、いかにも社長の知り合いのように振る舞って、自分の意に従わせようとする。従わないともちろん本社にクレームだ。

あげくの果てに奴らの口から出た言葉が、「誰のおかげで飯が食えると思っとるんだ!?」だ。少なくとも、無理難題を突きつけてくる偉そうなお前たちのおかげではない。
いったいどういう教育を受けているんだ、鉄頭のおっさんたちは。

保育園に通っている頃、生まれて初めて犬の交尾を見た。お尻とお尻がくっついて、いかにも困ったような顔をして、しきりに「ワンワン」と吠えていた。
そばにいた伯母に「何をしているのか」と尋ねると、クリスチャンの伯母は慌てる様子もなく、「悪いことをしたから、神様に罰を与えられて、お尻が取れなくなったんだよ」と答えた。
その時ぼくは思ったものだ。『犬にはなりたくない』と。

その行為が何であるかがわかった頃、ぼくは生まれて何度目かの犬の交尾を見た。相変わらず困ったような顔をして「ワンワン」吠えている。
『何がワンワンだ、ふざけやがって』、そう思っている時だった。近所のおっさんがバケツを持ってきて、その犬めがけて水を浴びせかけたのだ。二匹は慌てて逃げていった。
その時ぼくは思ったものだ。『犬にはなりたくない』と。

高校の頃だったか、親戚の家に遊びに行った時に、そこの飼い犬がしきりとタオルケットに攻撃をしかけていた。
何をやっているのだろうと見ていると、次第に犬はエスカレートして、ついには腰を振り出した。それを見ていた伯父に、犬は散々文句を言われ、最後に頭を叩かれていた。
その時ぼくは思ったものだ。『犬にはなりたくない』と。

いつも機嫌の悪い顔をしている奴がいた。根は優しく、実はいい奴なのに、人生のどこかの時点でその優しさにつけ込まれ失敗したらしく、本当に気を許した人間以外にはなかなか優しい顔を見せなかった。
学生の頃は、その根を知っている人が「ああ見えて、実は優しい奴なんだ」と陰でかばってくれていた。そのおかげで何とか人づきあいを彼はやっていけた。

ところが彼は、ほとんどが初対面の大人の世界まで機嫌の悪い顔を持ち込んだのだ。それで人生が狂った。
誰もかばう人がいないので、『機嫌の悪い人』が一人歩きする。機嫌の悪い顔が、吐く言葉を機嫌の悪いものに変え、その性格すらも機嫌の悪いものにする。だんだん人は彼を避けるようになり、そのうち彼のほうも社会を避けるようになった。

しかし何でだろう、何で彼は根の部分の優しさを前面に出さなかったのだろう。確かに優しさにつけ込まれて失敗したかもしれない。だけどその後人生のどこかの時点で、「実はあの失敗は成功だったんだ」と思える出来事があったはずだ。
きっと彼にはそのことが線として繋がらなかったのだろう。だから優しさは弱さだと、勘違いしたままでいたのだ。
「優しさは強さなんだ」、彼にそう言ってあげたいのだが、今どこにいるのかわからない。

若い頃、人からよく「髪が多いね」と言われていた。なるほど髪が伸びるとサイドが妙に膨らんで、影だけ見ると、まるでヘルメットをかぶっているようだった。
ハゲる家系ではないし、おそらくは死ぬまでこの重そうな頭を抱えていくものだと思い、頭の蒸れる夏場などは憂鬱な気分になることもあった。

ところが、年をとるにつれそうでないことがわかった。白髪が増えていくごとに毛細りしてきたのだ。おかげで髪のふくらみはなくなり、気分的には軽くなった。
だが、そのことで喜んだわけではない。白髪と毛細りのせいで、髪を洗うと、地肌が透けて見えるようになったのだ。『もしやハゲていっているのでは?』と心配したのだが、別に髪が減ったわけではなかった。その証拠に、床屋に行くと相変わらず「髪が多いね」と言われているのだ。
だけど、床屋はそう言いながらも、ぼくの髪をスクことはしなくなった。

「無理しなくていいですよ」というのは、少しの無理を期待されているということだ。「そうしてくれたら助かります」ということだ。「よかったら、全てやってくれませんか」ということだ。
そういう意味だと思い込んでいるから、ぼくはいつも無理をしてしまう。

そういう意味に捉えているのは、もしかしたらぼくだけなのかもしれない。もしそうなら、一人だけ馬鹿を見ていることになる。
だけどいいんだ。ぼくは常々、自分が納得できるように生きたいと思っているから。だって納得できないでいると、それを気にして眠れなくなるじゃないか。

来世の自分は、「無理しなくてもいいですよ」と言われたら、言葉を素直に受け取って、「はい、お言葉に甘えて、そうさせてもらいます」と、躊躇せずにその場を去ることのできる性格で生まれようと思っております。

たとえば本を読んでいる時に、その中に書いてあるたったひとつの言葉で、その本の内容がすべて見えてしまうことがある。以降ぼくはその本を読むことをしなくなる。あとは手を替え品を替え、そのことの説明に始終しているだけだから、もうページを開く必要がなくなるわけだ。

人に関しても同じことがいえる。ちょっとした言動の端々に、その人のすべてが見えてしまうことがある。以降どんなことがあろうとも、その人の中に立ち入ることをしなくなる。その後の言動はすべて説明になるわけだから、もうその人のページを開く必要がなくなるわけだ。

若い頃にはその能力の使い道がわからず、勝手に距離を置いてしまったりして、人付き合いに支障をきたしたこともある。若い頃ぼくは「世渡り下手」と言われていたが、きっと見えてしまうことに原因があったのだろう。

今はどうかというと、その能力を利用して、その人の言動の先読みをするような、意地の悪いことをやって楽しんでいる。そのため今は「意地の悪い人」と言われている。

何年か前から寝ている時と寝起き後に、頭が痛くなるようになった。偏頭痛とは違った痛みだ。
最初の頃はすぐに治っていたので、あまり気にはしてなかった。ところが最近になって痛みが増し、さらにその痛みが止まなくなって、昼間もボーッとしていることが多くなった。

「これは何とかしないと…」と、いちおう思う。だけどこういう時、病院に行くことをぼくはしない。病気はすべて、自分の中で解決できると思っているからだ。

とにかく自分で原因を探してみて、これはと思うことがあったら、まずそのことを自分の生活の中から、取り除くことにしている。今までその方法で、ほとんどの病気を治してきた。
だから今回もきっとそうだと思い、原因を探ってみたら、あった。枕だ。

ぼくは長いことそば殻の枕を使っているのだが、どうやらそのそば殻が頭の筋を圧迫して痛くなっていたのだ。併せて枕の高さも気になる。

ということで一昨日、その枕を使わずに、薄いクッションを頭に敷いて寝てみた。慣れない高さで少し背中が疲れていたものの、朝起きると頭の痛みはなくなっていた。

効能はそれだけではなかった。長年悩んできたガチガチの肩こりが、完全に治っていたのだ。肩こりは運動不足の問題ではなく、ちょっとした習慣によって起こる現象と、ぼくは前々から思っていたのだが、やはりそうだったんだ。

あれから二日経った。頭痛がなくなったのもうれしいが、柔らかい肩が何よりもうれしい。
これでまたひとつ、長生きの素が増えたな。

高校2年のことだった。学校帰り、校門の前でぼくたちは、同じクラスの女子数人としゃべっていた。小春日和の穏やかな日で、外の日差しが妙に心地よかった。
その陽気に浮かれたのか、女子の一人がピョンと飛び跳ねた。その時だった。彼女が着地する一瞬を狙って、サッと風が吹き、彼女のスカートが見事にめくり上がったのだ。

着地した彼女は、慌ててスカートを押さえた。しかしすでに遅く、そこにいた男子全員の目に、白いものが映った後だった。
彼女は顔を真っ赤にして、ぼくたちに「見えた?」と聞いた。ぼくたちは無関心を装いながら、「いいや」と答えた。彼女はホッとした様子を見せながら、「ああよかった」と言って帰って行った。

ぼくたちはその後、脳裏に焼き付いた、あの白いものを消さないようにと、買い食いなどせずに、まっすぐ家に帰ったのだった。

ここまでの人生、ぼくは惜しみもなく支出ばかりに重点を置いてきた。おかげで収支のバランスは崩れたままだ。しかも支出は増え続けていく一方で、返済のめどさえ立っていない。
だけどぼくは諦めているわけではない。どちらか一方に重点が置かれたまま物事が進むはずがないのを、ぼくは知っているからだ。
自然はいつも中庸であろうとする。ということは、自然はこのバランスを修復すべく収入攻勢をやってくれるはずなのだ。
それがいつになるのかはわからないが、ぼくはワクワクしながら待っている。

この間のことなんだけど、半感応信号の信号がなかなか変わらないのです。どうしてだろうと前の方を見てみると、先頭車の前、そうちょうどセンサーのかかる場所に、一人の自転車野郎がいるじゃないですか。
自転車だとセンサーが反応しないので、信号を変えるためには、ボタンを押さなきゃならない。そこで先頭車の人がボタンを押せと、しきりに自転車野郎に声をかけたり、クラクション鳴らしたりしているんだけど、ヤツはイヤホン音楽に熱中していて知らん顔。しかたなく先頭車の人は車を降りて、押ボタンを押しに行った。
自転車野郎は何やってるんだ風に、その人を冷ややかに見ておりました。
自転車野郎、おまえこそ何やってるんだ、ですよね。

自転車野郎といえばよくいますよね。信号無視する自転車野郎とか、携帯かけながら走っている自転車野郎とか、メール打ちながら走っている自転車野郎とか、イヤホンして音楽を聴いている自転車野郎とか。傘さして走っている自転車野郎とか、たばこを吸いながら走っている自転車野郎とか、無灯火で走っている自転車野郎とか、真下を向いて運転している自転車野郎とか。軽車両乗り入れ禁止の道を走っている自転車野郎とか、突然道路の真ん中に飛び出してくる自転車野郎とか、車道を逆走している自転車野郎とか、三人乗りしている中坊自転車野郎とか…。ヤツら本当に迷惑なんですよね。
おまえら自転車に乗る資格なんかない、目的地まで自転車を押してずっと歩道を歩いて行け!

以前車を運転している時に、ふと「そういえばこの場合、ミッション車だったらこうするんだったな」と考えながら運転していた。それから間もなく車が故障し、修理に出す羽目になったのだが、やってきた代車が何とミッション車だった。それもクラッチの入りが悪い、えらくボロな車だった。

その後も同じようなことが何度かあった。その時もぼくは同じように、ミッション車のことを考えていたのだった。
「いらんことを考えているから、ミッション車を運転しなければならなくなるような事態に陥るのかも知れん」
そう思ったぼくは、ミッション車のことを考えるのをやめた。
それ以降、ミッション車を運転しなければならなくなるような事態は起きなくなった。

もしかしたら、何かを考えながら行動を起こすと、それが伏線になって、その考えに沿ったことが起きるのかもしれない。もしそうだったら、「こうやると、お金持ちになるかも知れん」と考えながら行動すると、それが伏線になって、収入が増えるに違いない。
さっそくやってみよう。

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