吹く風

人生万事大丈夫

2006年01月

今日火曜日は恒例の休みだった。
姪の大学受験が控えているため、前々から太宰府天満宮行きを計画していたのだが、明日からいよいよ受験月に入る。
ということで、今日のうちに合格祈願をしておこうということになり、嫁ブーと二人で太宰府天満宮に行くことにした。

外は冬の真っ盛りにもかかわらず、今日は春を思わすかのような暖かさで、運転中に何度も眠気が差したものだった。
着いたのは昼過ぎだった。
まだ昼食前でかなり腹が減っていたが、とりあえずお参りを先にしておこうということで、参道にあるあまたの食事処には脇目もふらずに、天満宮に向かったのだった。

ところで、その天満宮に向かう時だが、ぼくたちはメイン通路である太鼓橋を渡らずに、いつも側道を通って本殿に行っている。
それには理由があるのだ。
実は、太宰府天満宮は縁切りで有名な神社なのである。
地元では、「カップルで太鼓橋を渡ると、天神さまが妬んで別れさせてしまう」という話が、まことしやかに囁かれている。
ぼくは過去何度か、その折々に付き合っていた女性と太宰府に行ったのだが、それらすべて、ものの見事に別れている。
もちろん嫁ブーとも独身時代に一度行ったことがあるのだが、やはりその時は一度別れたのだった。
しかし、やはり縁があるのだろう。
それから何年かしてよりを戻し、結局結婚に至ったわけだ。
しかし、その後遺症は大きく、結婚後に何度か太宰府に行っているが、ぼくたちは太鼓橋を渡らなくなったのだ。
まあ、ぼくはそんなことを気にしない質なのだが、嫁ブーがねえ…。

県内にはいくつかか、そういう場所がある。
その太宰府天満宮の他には、北九州市の到津遊園地(現 到津の森公園)とか、福岡市の大濠公園とかがある。
いずれもカップルで行くと(大濠公園はボートにカップルで乗ると)別れるのだそうだ。
実は、ぼくと嫁ブーは、そのどれも体験している。
どちらもつきあい始めた頃だった。
が、何年もぼくたちは別れなかった。
やはり決定的だったのは、天神様である。

とはいえ、ぼくには、今では聖人扱いになっているあの天神さまが、カップルを妬むなんて考えられないのだ。
そこでいろいろ考えた結果、それは天神さまの思いやりだという結論に達した。
つまり、別れるということは、天神さまが「その人はおまえの伴侶ではない」、もしくは「今はその時ではない」と言っているのだ。
ぼくたちが一度別れたのは、きっと『その時』ではなかったからだろう。

さて、冒頭に書いたとおり、今日は春を思わせる陽気だった。
しかし、天満宮ゆかりの梅の花は、時期が早いためか、まだほころんではいなかった。
合格祈願をした後は、食事をとろうと、太宰府に行った時にいつも立ち寄っている『お石茶屋』に行ったのだが、あいにく今日は定休日だった。
しかたなく、参道の食事処で、あまりおいしくないチャンポンを食べることになった。
その後は、最近太宰府に出来た九州国立博物館に寄ることもなく、まっすぐに家に帰ったのだった。

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(中央を歩いている紺のジャンバーが、嫁ブー)


4月の転勤の話、本社からの応援を断った件、部長との話し合いなど、仕事の面ですっきりしない毎日が続いている。
他にも、突然先行き不安定になった会社とか、会社内でぼく一人浮いているような雰囲気とかが、前の会社を辞めた時の状況にそっくりなのだ。

ぼくが前の会社を辞めた年の4月から、同期の人間が次々と辞めていった。
そのほとんどの理由が、「この会社に将来性を感じなくなった」だった。
発端は、「親会社が、プロパー社員を全員僻地に飛ばし、その後で会社を精算する」という噂が流れたことによる。
その年の4月に新しい店長が赴任したのだが、その店長は僻地に飛ばすための刺客だということだった。
ぼく以前に辞めた人は、そういう噂に敏感だった。
一人辞め二人辞め、気がついたら十数人が辞めていた。

ぼくはけっこう鈍感なほうなので「まあ、何とかなるやろ」くらいに思っていたのだが、先に辞めた人たちから、何度も「しんちゃんも考えたほうがいいよ」と言われ、そのことについて考えるようになった。
しかし、ぼくが辞めた直接の原因は会社の先行きなどではなく、その会社に対し使命感を感じなくなったことと、店長との確執にあった。

なぜ使命感を感じなくなったのかというと、要は仕事に魅力を感じなくなったからである。
ぼくは、楽器という、その会社では特殊な商品を扱っていたために、入社以来ずっと自由に仕事をさせてもらっていた。
ところが、ある時から急に没個性的な本社組織に編入されてしまい、だんだん魅力を感じなくなっていったのだ。
そのうち、いつもいつも同じことばかりしているような気がして、生涯ずっとこの仕事を続けていくのかと思うとゾッとするようになった。
そういう感覚で仕事をしていると、自分一人が会社内で浮いているような気がしてくるのだ。
そうなるとすべてが空回りしだし、そして最後に、この会社での使命は終わったというような感じがしてきたというわけだ。

そういう折に、店長との確執が決定的になった。
元々折り合いは悪かった。
何が気に入らないのか知らないが、店長はぼくに対し、あからさまに攻撃を仕掛けてきた。
最初は、ぼくのほうに何か落ち度があるのかと思っていた。
ところが、ある時、他人のミスをぼくのせいにしてしまったことで、それがぼくに対する嫌がらせであることがわかった。
そこで、ぼくの怒りが爆発した。
それ以降ぼくは、店長の攻撃に対し応戦するようになった。

使命感を感じなくなった仕事や、店長との確執など、自分の意思とはまったく関係のないところで、そうなっていったのだ。
そのため「これも運命がさせているのだろう」と思うようになった。
そして「運命なら仕方ない」と思い、ぼくは辞表を出したのだった。

さて、今の会社の流れは、前の会社の流れと大変よく似ている。
これまでぼくは専門分野に就いていた。
それがこの4月に、ぼくにとっては魅力のない部署に異動させられることになるのだ。
まったくいっしょである。
歴史は繰り返すと言うが、運命もまた繰り返すのだろうか。
これも運命だとするなら、ぼくは今の会社を辞めることになるのだろう。
だが、それについては、今のところ何も決断を下してはいない。

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この間の飲み会のことだった。
メンバーの中に、地場ではかなり有名な食品会社に勤めている男がいた。
ぼくは前々からその男にある提案をしたいと思っていた。
そのチャンスが訪れたのだ。
そこでぼくは彼に声をかけてみた。
「おまえんとこ会社で、お菓子作ってみらんか?」
「お菓子?」
「うん。饅頭とか煎餅とか」
「何で?」
「それに『銘菓 月夜待』という名前つけるんよ」
「月夜待ぃ…?あのいなかの月夜待か?」
「そう。あの月夜待よ。“ほろ甘い初恋の味”とか言って売り出したらどうか。CMソング提供してやるけ」
「‥‥」

その男は酔っているのか興味がないのか、話にまったく乗ってこなかった。
それどころか、後ろの席に座っていた女子大生にちょっかいをかけてだした。
それを見てぼくは「ダメだ」と思った。
『まあいいや。この話はよそに持っていこう』
ぼくはその後、その話は一切しなかった。
知らんぞ、『銘菓 月夜待』が大ヒットしても。
後で泣きついてきても、その時はもう遅い!

今日、たまたま会社の事務所で、本社の部長と二人っきりになった。
そこでの会話である。

「しんた君は営業やったことがある?」
「営業…、セールスですか?」
「ああ、そんなところやね」
「ないですよ」
「そうか。じゃあ、ずっと販売ばかりやってたんか?」
「そうです」
「電気の?」
「ええ」
「何年になるんかなあ?」
「25年です」
「…そうか。じゃあ、いきなり他の部署に、とか言われても戸惑うよなあ」
「はい」
「いや、君も知っているとおり、4月からうちの会社は電気を扱わんようになるやろ」
「ええ」
「で、君に次の仕事を与えるようになるんやけど、いったいどんな部署が君に向いてるかわからないから、唐突に質問したわけやけど…」
「そうですか」
「何か、自分でここに行きたいとかいう部署はある?」
「うーん…」
「でも、今回のことがわかってから、いろいろ考えとるんやろ?」
「ええ。転職も含めたところで考えてはいます。でも、答なんてすぐには出てこないですよ」
「そうやろうなあ。特に君の場合、ずっと専門職でやってきたわけだからなあ」
「質問なんですけど、自分の選択肢のひとつに出向というのがあるんですが、それは出来ますか?」
「出向かあ…。ちょっと難しいなあ」
「そうですか…」

「まあ、その件で今度、君も含めた該当者の面談をやるようになっとるんよ」
「そういうのがあるんですか?」
「うん。おそらく3月に招集かけるやろうけど、その時は、自分の言いたいこととか、何もかも包み隠さずに言って欲しいんだよね。自分の言いたいことを言わないと、後でとんでもない人事になったりするからね。それじゃあ、君にとってマイナスになるばかりだ」
「そうですね。じゃあ、その時は言いたいことを言わせてもらいます」
「うん。頼んだよ」

ということで、長いようで短かった部長との会話は終わった。
まあ、会社もいろいろと考えてはくれているようだ。
しかし、その会社自体がだんだんおかしい方向に進んでいる。
ぼくはいったいどうなるのだろう。
いっそ、すべてを捨てて、最後の選択肢であるストリートミュージシャンにでもなるかなあ。

昨日は飲み会だった。
朝方、頭がガンガンして目が覚めた。
早くも二日酔い症状なのである。
考えてみると、昨日はほとんど食べずに飲んでばかりいた。
そういう飲み方にも問題があるだろうが、飲んだのは、たかだか生ビール10杯程度なのだ。
その程度で二日酔いということは、かなり弱くなっている証拠である。

そういえば、昨日パートさんたちと話をしている時に、晩酌の話が出た。
「しんたさんは、晩酌でどのくらい飲むと?」
「日本酒一合くらい」
するとそのパートさんは、いかにも私はまだ飲むよと言いたげに「少なーい」と言った。
「晩酌というのは、あくまでも晩飯の一部なんやけ、その程度で充分やろ」
「でも、それじゃ酔えんやろ?」
「酔うために飲みよるんじゃない。飲むことで晩飯がおいしくなればいいんやけ」
その人は嘲笑うかのような顔をして、「ふーん」と言った。

いるんですね、さりげなく自分の酒量を自慢したがるバカが。
そういう人に限って、酒の味もわからずに深酒して、昼間はいつも白昼夢のような顔をしている。
また、酒の席では、いかにも自分は強いとでもいい言いたげに手当たり次第に酒を飲み、他人に酒を強要したり、あげくに人事不省に陥ったりと、いつも他人に迷惑をかけている。

ぼくは、そういう人を酒が強い人だとは決して思わない。
「自分は酒が強い!」と錯覚している、ただのバカである。
しかも、そういう人は、胃や肝機能に障害を持っていたりする人が多い。
ぼくが知っているだけでも、酒の飲み過ぎで死に至った人や、透析を受けるはめになった人はかなりいる。
そういう人は自分の適量というものを知らない、つまり、酒がわかってないのだ。

ここではっきり言っておこう。
酒が強い人は病気である。
どんな病気かというと、酔えないから、酔おうとして無理に酒量を重ねてしまう病気である。
そして、その酒が体を蝕んでしまう。
自分の健康を害するような飲み方しかできないなら、飲まないほうがいい。
そして、「自分は酒が強い」なんて思わないほうがいい。

「しんちゃん、2月から毎週2回、倉庫の手伝いになったよ」
「えっ、倉庫に行って何をするんですか?」
「いや、倉庫に欠員が出てね。その埋め合わせに行って欲しいんよ」
「何でおれなんですか?」
「あんたしかフォークリフトの免許持ってないけねえ」
「それ断れないんですか?」
「いや、一度は断ったんやけど…。もう決定したことやけ、頑張ってね」
「えーっ」

昨日の朝の店長との会話である。
いくらフォークリフトの免許を持っているとはいえ、免許を取って以来一度しか乗っていない、言わばペーパードライバーである。
しかも、ぼくは広々とした野外でしか運転したことがない。
そういう人間にしょっちゅうフォークリフトを操らなければならない仕事、それも狭い倉庫の中で運転するなんて出来るはずがない。
しかもフォークリフトの種類がまったく違うのだ。
こちらは座って操るタイプで、あちらは立って操るタイプのフォークリフトである。

それを聞いた人たちから、「倉庫の仕事は危ないよ。ベテランでさえ何度か倒れたもんねえ」と言われた。
「倒れたって?」
「フォークリフトに乗ったまま倒れるんよ」
「あそこのフォークリフト、そんなに安定が悪いんですか?」
「うん。下手すりゃ死ぬよ」
「死ぬんですか?」
「おう、今乗っているやつでさえ、こけて頭打ったもんねえ」
「えーっ」
「ただでさえ通路が狭くて危ないのに、いくら免許を持っているとはいえ、あんたみたいに、ほとんどフォークリフトに乗ったことのない人がやったら、死ぬことはなくても、大事故は免れんやろう」

実はぼくの父親は、ぼくが幼い頃に労災で死んでいるのだ。
突然「死ぬ」などと言われると、その記憶が蘇ってくる。
前に住んでいた家を引き払う時に、偶然見つけた遺品の数々…。
そこにはその事故の際にかぶっていた父親の作業帽や作業服があった。
血糊がべったり付いたそれらの遺品は、実に生々しく事故の凄さを物語っていた。
それを見て以来、ぼくは「危険な職業には就くまい」と思うようになり、今の安全な小売業に就いたわけである。

ところが、その安全な小売業に、死と隣り合わせになっている仕事があったのだ。
しかも、その仕事をぼくに任せようというのだ。

ぼくはさっそく本社の担当課長に断りの電話を入れた。
もちろん、直属の上司に言うべきことなのだろうが、一度は断ったけど、断り切れないで今回の決定になったわけだから、そういう人に言っても埒があかない。
他に周りから攻めていく手もあったが、とにかく時間がない。
ということで、直談判に踏み切ったのだ。

「しんたですけど」
「おう、どうした?」
「例の応援の件ですけど」
「ああ、あの件ね」
「考え直してもらえませんかねえ」
「えっ、何で?」
「死と隣り合わせのような仕事なんて、誰もしたくないでしょ」
「死と隣り合わせ…?誰がそんなこと言ったと?」
「みんな言ってますよ」
「‥‥。でも、あんたフォークリフトの免許持っとるんやろ」
「持っていても、運転したことのないペーパードライバーですよ」
「えっ、運転したことないと?」
「ええ、ありません」
「それは困ったなあ…」
「こちらも困ってますよ。こんな人間が、応援なんかに行ったら、そこの人に迷惑がかかるだけですよ。それと、そこは2トントラックの運転もしなくちゃならないんでしょ?」
「うん」
「そんな大きな車、運転したことないですよ。しかもミッション車なんて十数年運転したことないし。事故起こしたって知りませんからね」
「‥‥」
担当課長は焦っているみたいだった。
いっとき沈黙が続いた後、「わかった。もう一度検討して、また連絡する」と言って、電話を切った。

さて、どうなるだろうか?
ただ、今回のことでひとつだけ言えることがある。
いくら応援とはいえ、まかりなりにも人事に口を出したのである。
おそらく4月の異動の時には、マイナスになるだろう。
しかし、それでも死ぬよりはマシである。

「おお、これはいい手相ですねえ」
東京にいた頃、手相見のおっさんに手相を観てもらったことがあるのだが、その時にそう言われた。
何でも、何十万人に一人の手相だそうで、知能線が他の人と違うというのだ。
そのおっさんによれば、知能線が人と違うというのは、そのまま知能が人と違うということだそうである。

知能が違う。
これをどう解釈したらいいのだろう?
知能が人と違うぼくには、それがわからない。
そこで、その人にその意味を尋ねてみた。
「知能が違うというのは、頭がいいという意味ですか?」
するとその人は、
「そういう意味もないことはないんですが、この場合、人と比べて変わっていると捉らえたほうがいいでしょう」と言う。
「あのー、それって変わり者だということですか?」
「そうですね。そう捉らえてもらって結構かと思います」
「‥‥」
ぼくは幼い頃からずっと、人から「変わってるね」と言われてきた。
そのたびに、「おれが変わっとるんやない。そう見るおまえが変わっとるんたい」と、自分が変わっていることを否定していた。
だが、手相で「変わっとる」と言った人のほうが正しかったと証明されてしまったのだった。

それはともかく、手相見のおっさんは「いい手相です」と言った上で「変わっていると捉えろ」と言ったわけだが、ぼくにはこれが矛盾しているように思える。
どう考えても、『いい手相』と『変わり者』とが結びつかないからだ。
もしかして、そのおっさんは、変わり者であることが幸運とでも思っていたのだろうか?
もしそうなら、おっさんの目には、世の中の人すべてが幸せ者に見えていたことだろう。

さて、そのおっさんは、ぼくが変わり者であると鑑定した以外は、仕事運だとか恋愛運だとかいう世間一般の占いはやってくれなかった。
きっと見料が500円だったから、そこまで詳しくは鑑定しなかったのだろうが、もしあの時、仕事運とか恋愛運とかを観てもらっていたら、ぼくのその後の運命も大きく変わり、今頃転勤なんかで悩まずにすんだのかもしれない。
後悔先に立たずというが、実に残念なことをしたものだ。

小学6年生の頃、友だちと校区内にある池に遊びに行ったことがある。
山の絶壁を背景にして、その池はあった。
けっこうスケールが大きく、まるで山水画に出てきそうな風景だったと記憶している。
行ったのはその時が初めてだった。
近くにこんないい場所があるのかと、その時は感心しきりだった。
ところが、それ以降はそこに行ったことがない。
それっきり、その池の存在を忘れてしまったのだ。

その存在を思い出したのは、つい最近、昨年5月末のことだった。
鞍手の長谷観音に行った時に、大きな池を見つけた。
その池を見ているうちに記憶が蘇った。
「そういえば、小学生の頃に池に行ったことがあるけど、あの池は今どうなっているんだろう」
それ以来、その池のことが気になっていた。
休みを利用して、何度かそこに行ってみようと思ったのだが、いざ行くとなるとおっくうで、そのままになっていた。

そのままになっていた理由はもう一つある。
その場所は何となく憶えているのだが、なにせ行ったのは40年近く前である。
40代に入って、それまで記憶していた道が、実は記憶違いだったという経験を何度かしている。
そのため、6年生の頃の記憶が正しいのかどうか怪しくなっていたのだ。
「もしかしたら、あれは夢だったのかもしれない」、と思うことすらあるのだ。

さて、今日は休みだった。
特にすることもなかったので、久しぶりにそこに行ってみようと思い立ち、嫁ブーを誘ってみた。
行ってみたいと言うことだったので、散歩がてら、そこに歩いて行くことにした。
記憶を確かめるために、遠回りして小学校まで行き、そこから目的地に向かった。

途中までは、ぼくの記憶通り順調にいった。
ところが、途中からだんだん怪しくなってきた。
それもそのはず、当時田んぼがあったところが、宅地になってしまい、そのために新たな道がいくつも出来ており、そのために、記憶の中の道がどの道だかわからなくなってしまったのだ。
とはいえ、方向は間違ってない。
そこで躊躇せずにどんどん歩いていくと、そこに池らしきものが現れた。

「やはり記憶は間違ってなかった」と心の中で小躍りした。
ところが、どうも小学生の頃に見た池と違うような気がする。
まず、大きさが違うのだ。
あの頃見た池は、湖と思えるほど奥深く、山の絶壁まで続いていたものだ。
だが、目の前にある池は、ただのため池だった。
その山も違う。
たしかに山らしいものはあったが、それは山というより森だった。
しかも絶壁と思っていたところは、実はため池を作るために森を少し削ったところだったのだ。

どうやら、記憶違いだったのは、その行き道ではなく、その風景だったようだ。
ぼくの中にある山水画のような壮大なスケールのあの風景は、いったい何なのだろう。
やはり夢で見た風景だったのだろうか。

毎週月曜日の午後10時からは、テレビ東京系の『名曲の時間』を見ている。
今日は「青春感動ソング」ということで、70年代後半から80年代にかけてヒットした曲を流していた。
ちょうど桑江知子の『私のハートはストップモーション』が流れていた時だった。
ある疑問が沸いてきた。
そこでぼくは嫁ブーに聞いた。

「おい、この歌、会社に入った頃に流行ったんかのう?」
「えっ、もっと前よ。79年ぐらいやなかったかねえ。わたしまだ高校生やったもん」
「ああ、そうか。おれ、その頃の歌はあんまり知らんけのう」
「昔の歌をあれだけ知っとるのに、どうして?」
「それには理由がある」
「理由って何?」
「それは、東京におったけよ」
「えっ、その当時は東京のほうが情報が多かったやろ?」
「そうやけど、情報を仕入れる肝心なものがなかったんよ」
「何?」
「テレビ」
「えーっ、テレビ持ってなかったと?」
「おう。貧乏人やったけの。久保田早紀の『異邦人』を知ったのは、翌年こちらに帰ってきてからやった。テレビがなかったけ、サンヨーのCM見れんかったけのう。そうそう、クリスタルキングの顔見たのも、翌年こちらに帰ってきてからやった」
「ふーん、そうなん」
「おまえ、テレビのない生活なんか考えきらんやろう?」
「うん」
「千葉の友だちのアパートに遊びに行った時、白黒テレビがあったんよ。他の奴らは『いま時白黒?!』とか言いよったけど、おれにはまぶしかったのう。YMOはその時初めて見た。だから今でもおれの中にある坂本龍一の顔は、白黒なんよ」

「でも、テレビがないとか、いややねえ」
「なければないで、何とか楽しめるもんぞ。あれ以来ラジオを聞くのが好きになったし、何よりも曲作る時間が取れたことが大きかった」
「しんちゃんはそれでいいけど、わたしはやっぱりだめやね」
「もしよ、このテレビが壊れたらどうするか?」
「買えばいいやん」
「でも、液晶とかプラズマとか買う余裕ないぞ」
「あ、そうか」
「そんなの買いよったら、あのバタバタ音のするエアコンの壊れた車に、いつまでも乗らないけんくなるぞ」
「ああ、そうよねえ」
「テレビも車みたいに、60回分割とかできたらいいのにのう」
「そうよねえ」
「あ、そうか。車を買う時にテレビをサービスで付けてもらえばいいんよ」
「ああ、その手があるねえ」
O君に言って、付けてもらおうかのう」
「そうやねえ」

ということで、ホンダのO君。
ぼくはプラズマテレビを付けてくれるところで車を買うことに決めましたので、報告しておきます。
よろしくね。

その後もSは、結束機にかけられたりして、みんなのいいオモチャになっていた。
しかし、Sは相変わらずそれを気にしているふうでもなかった。

ある時、年上の大学生にぼくは「Sは、やっぱりバカなんですかねえ」と聞いてみた。
「ああ、あいつやろ。学校でもあんな調子らしいぞ」
「やっぱり。ところで、あいつ下の名前何というんですか?」
「いや、知らん。下の名前に何かあるんか?」
「いや、おれ最近姓名判断に凝っていて、ああいう人間を見ると調べたくなるんですよ」
「そうか」

ということで、ぼくたちは高校生の集まっている場所に行き、「Sの下の名前、何と言うんか?」と聞いてみた。
ところが、返ってきた返事はどれも「知りません」だった。
それなら直接聞いてみようということになり、ぼくたちは離れた場所にボーッと突っ立っているSのところに行った。
他の高校生も興味を持ったのが、ぞろぞろと付いてきた。
「S、おまえ下の名前何と言うんか?」
「はあ、ぼくですかあ?」
「おう、おまえに聞きよるんたい」
「何でですかあ?」
「おまえのことを好きという女がおってのう、名前聞いてくれと頼まれたんよ」
「はあ、そうですかあ」
そういうと、Sはいつものように口をポカンと開けて、例のごとく首をかしげた。
「ホント、おまえは緊張感のない奴やのう」
「えっ、緊張感…?って何ですか?」
「もういい。下の名前、何と言うんか?」
「ぼくですかあ?」
「そう。さっきからそう言いよるやろうが」
「ぼくは…」
「ぼくは?」
「名前は…」
「名前は?」
「輝彦です」
「輝彦ーっ!?」

それまでざわめいていた空間が、一瞬水を打ったようにシーンとなった。
が、その後、大爆笑が起きた。
輝彦と言えば、西郷輝彦、あおい輝彦である。
当時は美男子の代名詞のようなものだった。
その尊い名前を、バカ高の代表選手が付けているものだから、大騒ぎになった。
高校生たちは口々に、「おまえのどこが輝彦なんか」と言って、頭をこづいている。
ぼくといっしょにいた大学生などは、笑いをかみ殺して「おまえ、その名前重たくないか?」と聞いたほどだ。
しかし、S、いや輝彦君は、虚空を見ながら、「重いって何ですかあ?」と言っていた。

その後、ぼくたちがSのことを輝彦と呼ぶようになったのは、言うまでもない。
つまり、「こらS、止めんか!」が、「こら輝彦、止めんか!」となったということだ。
輝彦は、そう言われても、相変わらず口をポカンと開けて、一生懸命荷物を押していたのだった。

あれから30年近くが経つ。
輝彦はぼくより2つ下だから、今年47歳になるのだが、いったいどういう生活をしているのだろうか。
無事に結婚しているのだろうか。
結婚して子供がいたとして、妻や子供たちにいじめられてはないだろうか。
最近妙に気になっている。

浪人中にいくつかのアルバイトをやったが、その一つにデパートの配送仕分けの仕事があった。
そのバイト先には、大学生やぼくのような浪人に混じって、高校の実習生も仕事をやっていた。
その高校というのが、その当時地元でバカ校で通っていた学校だった。
まあ、バカ高とはいえ、前の学校を退学になったために、しかたなくその高校に通うようになった人間がいたり、中学卒業後に一度は就職したものの、学問の夢が捨てきれずその高校に通うようになった人間もいたから、バカばかりというわけではなかった。

さて、その実習生の中に、行動といい、風貌といい、そのバカ高を象徴するような男がいた。
Sという。
Sは実によく働く人間だった。
他の奴らがさぼっていても、Sだけは一生懸命自分の仕事をこなしていた。
だが、融通が利かないのだ。
「ローラーの上の荷物を押せ」と言えば、状況を見ずにただひたすらに押すだけで、先端で荷物が落ちてしまっても、こちらが「こらS、止めんか!」と怒鳴るまで押し続けていた。
何度やってもそんな調子なので、一度注意したことがある。
その時Sはポカンと口を開けて、何で注意されているのかわからない様子だった。
ぼくが「頼むけ、前方の状況を確認しながら押してくれ」と言うと、「はあ、わかりました」と言うものの、その直後には、やはり前方を確認せずに押し続けるのだった。
こうなれば、こちらが気を利かして、荷物が落ちる前に「ストップ」と言うしかなかった。
ただでさえ神経を使う仕事だったのに、そのおかげでさらに疲れは増した。

ある時のことだった。
休憩時間が終わって仕事を始めようとすると、今度はなかなか荷物が回ってこない。
見てみると、Sは体中にガムテープを巻き付けられていた。
ぼくは慌ててSのところに行って、「どうしたんか?」と聞くと、Sはヘラヘラ笑いながら「みんなから巻き付けられました」と言った。
「おまえ、みんなからいじめられよるんか?」と聞くと、Sは口をポカンと開けたままで首をかしげ「いじめ…?いや、いじめられてないっすよ」と言う。
「もういい」とぼくは言って、おそらくガムテープを貼り付けただろう人間たちに向かって「おい、ガムテープ剥いでやれ。そうせんと、いつまでたっても帰れんぞ」と言って、テープを剥がさせた。
Sはみんなから頭をこづかれながら、テープを剥がされていた。
その間もSはヘラヘラ笑っていたのだった。

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