吹く風

人生万事大丈夫

2005年08月

2年の頃から、ぼくはぼちぼちオリジナル曲を作るようになった。
だが、弾き語りでやる歌は、相変わらず拓郎ものだった。
オリジナル曲は、まだまだ人に聴かせられるような内容ではなかったし、またオリジナルを聴かせる度胸もなかったのだ。

その年の文化祭で、ある文化系クラブが、隣の教室でライブハウス的な喫茶店を出していた。
体育館でやるほどの勇気をぼくは持ち合わせてはいなかったが、教室ぐらいの広さなら何とかなるだろうと思い、そこに飛び入り参加させてもらうことにした。
係の人は「いいですよ。でも時間がないんで、10分程度でお願いします」と言った。
「えっ、たった10分ですか?」
「ええ」
「もっと歌わせてくださいよ」
「あと30分で閉店しますから」
「じゃあ、30分歌わせてくれたらいいやないですか」
「だめです。他にも歌いたがっている人がいますから」
「ああ、そうですか」
10分でも歌わないよりはましだと思い、ぼくはその条件をのんだ。

さっそく、ステージに行くと、そこにはマイクやアンプが用意されていた。
しかし、「教室でやるのに、こんなもの使わんでいい」と思ったぼくは、そういう機材をまったく使わず、普段教室でやっているように大声を張り上げて拓郎の歌を歌った。
最初はその声の大きさで、そこにいた人は耳を傾けてくれた。
とはいえ、ギターを弾き始めてまだ1年もたってない腕である。
早くも2曲目でボロが出てしまった。
まずコードを間違え、それに焦ったぼくの声は裏返ってしまったのだ。
だけど、それでもぼくはやめずに歌い続けた。

予定の10分がたった。
係の人がぼくのそばに来て、「時間ですよ」と言った。
しかし、ぼくはそれを無視し、結局店が閉店するまで歌っていたのだった。
そのせいで、ぼくの後に予定していた人が歌えなくなってしまい、散々文句を言われたのだった。

さて、高校時代の最大のイベントといえば、もちろん修学旅行である。
その修学旅行が近づくにつれ、ぼくは中学時の修学旅行での苦い想い出が蘇ってきた。
「あんな悔しい思いは二度としたくない。今度は最初からガンガン行くぞ!」
そう思ったぼくは、ギターを準備して修学旅行に臨んだ。

修学旅行は、富士山から信州を通って金沢に行くルートだった。
静岡まで新幹線で行き、バスに乗り換えた。
ぼくはバスに乗ると、さっそくギターを取り出した。
そして、バスガイドが案内しているのを無視して、がんがんギターを弾き、歌いまくった。

ある程度ギターが弾けるようになってから、ぼくは初めて学校にギターを持っていった。
そして、弾き語りできる歌だけを歌った。
だが、下手くそだったから、誰も見向きもしてくれなかった。
いや、たった一人だけいちおう聞いてくれた人がいた。

その一人とは、『月夜待』の君である。
しかし、彼女にぼくの弾き語りを聞かせたのは、これが最初で最後だった。
それ以降、作詞作曲に目覚めたぼくは、彼女に対する歌を数多く作っていくことになるのだが、一度もそれらの歌を彼女に聞かせたことがないのだ。

今、ホームページで『歌のおにいさん』というコーナーを作り、歌を発表しているのも、あわよくば彼女が聞いてくれるかもしれないという小さな期待を持っているからだ。
もしそういうものがなかったら、こんな恥ずかしいことをするわけがない。
せめて『月夜待』だけでも聞いて欲しいものである。
ところが、困ったことに、『月夜待』の君は自分が『月夜待』の君だということを知らないのだ。
もし、再会してぼくが教えない限り、一生わからないままかもしれない。
それを思うと、何かむなしい。

さて、1年の春休みに、ぼくは家にこもってギターの特訓をやった。
そのおかげで、アルペジオなど難しいことさえやらなければ、何とか拓郎の歌を弾けるようになった。
それに伴って歌の練習もやったから、けっこう高音が出るようになった。
その1年前は低音で歌っていたのだから、大きな進歩である。
ぼくは今でも、しゃべる声より歌う声のほうが高く、びっくりされることがあるのだが、それはこの時の練習のせいである。

2年になった。
その頃にはギターがないと歌わないようになっていたから、1年の時のような教室ライブはやらなくなった。
ただ、1年の時の癖で、授業中には歌を歌っていたようだ。
ぼくは気がつかなかったのだが、ぼくの席の周りの女子がそれを気づいて、「しんた君、授業中に歌いよったやろ」と言ってきた。
最初は何のことを言っているのかわからずに、「この女、何を言いよるんかのう」などと思っていたが、それを言われてから、ようやく自分でもわかるようになった。
勝手に口が動いているのだ。
しかし、ぼくはその癖を直そうとはしなかった。

ところで、2年のクラスには『初恋』の君がいた。
が、すでに『月夜待』の君に心を奪われていたぼくは、『初恋』の君に何の関心も持たなかった。
それゆえに、高校2年時、彼女のために歌おうなどとは、まったく思わなかった。
「あの頃よりは、歌が上手くなったぞ」とか「ギターが弾けるようになったんぞ」とかいう思いは、心のどこにもなかった。
2年前、あれほど思い悩んだのが嘘のようである。

しかし、考えてみたら、その人のおかげで歌を歌うことを覚えたのだ。
ということで、『初恋』という歌は、そのお礼ということにしておこう。

拓郎の歌を歌っていくうちに、だんだん物足りなさを感じてきた。
ただ歌うでは面白くなくなってきたのだ。
やはり、拓郎をやるなら、ギターは必須である。
ギターがあってこそ拓郎の歌は生きてくる。
また、ギターがあれば、以前からの夢であったオリジナル曲も作ることが出来るだろう。

だが、そのギターがない。
そこで親にギターを買ってくれと頼んでみた。
が、「そんな金はない」と一蹴されてしまった。
こうなればアルバイトしかない。
当時、ぼくたちの学校では、アルバイトは禁止されていた。
とはいえ、そういうのは無視すれば何とかなる。
ということで、何件かアルバイト先を当たってみた。
ところが、それらはすべて夕方のバイトだったため、放課後クラブ活動をやっていたぼくには到底出来ない。
せめて日曜日だけでもということで探してみたが、そういうバイトは見つからなかった。

ところが、歌の神様は、そこでぼくを見捨てなかった。
ある日、親戚から電話がかかった。
使ってないギターがあるから、それをあげると言ってきたのだ。

なぜ親戚の人が、ぼくがギターをほしがっているのを知っていたのかというと、実はぼくのいとこがクラスの女子の家(花屋)で働いていた。
いとこは、その子にいろいろとぼくのことを話したり聞いたりしていたらしいのだ。
それで、ぼくがギターを欲しがっているというのを知ったというわけだ。

さて、ギターを手に入れてからのぼくは、一日中ギターのことばかり考えていた。
そのため、一時的に教室ライブをやらなくなり、代わりに箒を手にギターコードの練習をするようになった。
もちろん家に帰れば、寝るまでギターの練習をやっていた。
その甲斐あって、ギターを手に入れてから2週間後には、下手なりにも何とか一曲の弾き語りが出来るようになった。
その歌は、拓郎の『こうき心』という歌だった。
何でこの歌だったのかというと、コード進行が比較的簡単で、FやBといった難しいコードを使わなくてすんだからだ。

『こうき心』が出来るようになって、再びぼくの教室ライブは復活した。
箒を抱えて、『こうき心』を歌うのである。
せっかくギターが手に入ったのだから、ギターを持ってきてやればよかったのだが、やっとAmを覚えたばかりの素人のぼくには、ギターを持ってくるなどという勇気はなかったのだ。

その後は、拓郎を聞き始めた頃と同じように、一曲弾けるようになると、箒を抱えて教室ライブをやるようになった。
箒を抱えるという姿がおかしかったのか、見ている奴らは笑っていた。
が、ぼくはけっこう真剣だった。
なぜなら、箒をギターに見立てて、イメージトレーニングをやっていたわけだからだ。

ぼくはレコードを買ったり借りたりして拓郎の歌を聴き、そして覚えていった。
覚えては、教室でその歌を歌う毎日を繰り返した。

ぼくがあまり拓郎の歌ばかり歌うので、『月夜待』の君も拓郎に関心を寄せたらしく、ある時ぼくに「わたし、昨日拓郎のレコードを借りて聴いてみたよ」と言ってきた。
ぼくが「拓郎はいいやろ?」と言うと、「まだ一回しか聞いてないけよくわからんのやけど、『男の子女の娘』という歌がよかった」と言う。
すかさずぼくがその歌を歌うと、彼女は「えっ、そんな歌やったかねえ?」と言う。
「この歌はこんな歌ぞ」
「なんか違うような気がするけど…」
「おまえ、耳がおかしいんやないか?」
「そんなことないよ」

その頃のぼくは、彼女のことを気に入ってはいたが、自分の中でまだ好きだとは認めてなかった。
だからこそ、「耳がおかしい」などと平気で言えたのだ。
彼女のことを「好きだ」と認めてからは、そういうことを言ったこともなければ、思ったこともない。

さて、どうも納得のいかないぼくは、家に帰ってから彼女が好きだというその歌を聴いてみた。
が、ぼくが歌うのと何ら変わらない。
「やっぱりこんな歌やないか。しかし、彼女は何でこんな歌が好きなんやろう?熱狂的な拓郎ファンでも、この歌を好きという人はあまりおらんと思う」
案の定、ぼくの人生の中でこの歌を好きだと言ったのは、彼女一人しかいなかった。
そこで、ぼくは「きっと、彼女は歌を聞き間違えたんやろ」と結論づけた。

そして翌日、ぼくはそのことを彼女に言おうとした。
が、あいにく彼女は、友人たちと談笑にふけっていたため、なかなか入り込むチャンスがつかめなかった。
そうこうするうちに、一日は終わってしまった。
その翌日になると、今度はぼくのほうがそのことを忘れてしまっていた。
それを思い出したのは、何週間か先のことだった。
「今更言うのも何だから」、という理由で、結局そのことは言わずにおいた。
今になってみれば、それが心残りである。
もし、あの時そのことを言っていたら、そのことがきっかけとなって、二人の間はもっと違った方向に行っていたかもしれないのだから。

ぼくと彼女との間には、そういうちょっとした行き違いが多々ある。
その当時は、その行き違いにいちいち理由をつけて、「これが後々ドラマチックな展開につながるんだ」と思っていたものだった。
ところが、その勝手な思い込みは、結局8年間の片思いにつながってしまった。
当時のぼくは、夢見るおバカだったのだ。

デビューの曲目を決めた日、ぼくは例のごとく押し入れにこもって、その歌を練習をした。
そして次の朝、教室に入るなり、その歌手を真似て、いやらしくその歌を歌った。
みんなの視線がぼくに集まった。
「誰、あの人?」
「H中出身の、しんたという人らしいよ」
「変な人やね」
歌っている最中、そんな声がぼくに聞こえてきた。
が、ぼくはそんな声を無視して歌い続けた。

ということで、その作戦は見事に成功した。
クラス中の人がぼくの存在を認め、ぼくのイメージは「暗い人」から「面白い人」に変わった。
もちろん『月夜待』の君も、ぼくの存在を知ることになった。

さて、その歌はいったい何だったのか?
勘のいい人なら、もうおわかりだと思うが、その歌は、ぴんからトリオの『女のみち』である。
言わばこの歌が、『月夜待』の君に捧げる最初の歌となったのだった。

その日から、ぼくは毎日歌を歌い続けた。
そのたびに注目度は増してくる。
『月夜待』の君も、ぼくに関心を持ったようで、時折声をかけてくるようになった。
そのたびにぼくはバカをやっていた。
もちろん本気でバカをやっていたわけではない。
照れ隠しである。

さて、毎日歌を歌ってはいたものの、いつまでも『女のみち』を歌っていたわけではない。
歌本を持っていっては、知っている歌を片っ端から歌っていたのだ。
それを続けていくうちに、ぼくの中である変化が起きた。
最初は目立つために始めた歌だったが、そのうちそれが癖になってしまい、歌わないと落ち着かなくなっていたのだ。
休み時間はもちろんのこと、授業中も自然に歌が出てくるようになっていた。

そんなある日のこと、ぼくはひとつの武器を手に入れることになった。
人生最大の武器といってもいいかもしれない。
その武器とは、『吉田拓郎』である。
いつものように家に帰ってFMを聞いていると、ちょうど吉田拓郎の特集をやっていた。
最初は何気なく聞いていたのだが、そのうち身を乗り出して聞くようになり、ついにぼくの体中は拓郎でいっぱいになった。
拓郎洗礼の瞬間である。
とにかくすごい衝撃だった。
放送が終わった後も、拓郎の歌がずっとぼくの中で鳴り響いていた。

拓郎の何に衝撃を受けたのかというと、その歌詞であり、その曲である。
彼は決して歌が上手い方ではない。
だが、彼の歌を聴くと、そんなものどうでもいい、という気がしてくるのだ。
妙に説得力のある歌いっぷりは、『自分の作った歌』、という誇りからくるものなのだろう。
「やはり、オリジナルだ」と、ぼくはその時漠然と思ったものだった。

とにかく、その翌日から、ぼくは他の歌を一切歌わなくなった。
そう、拓郎オンリーになったのだ。

とはいえ、すぐに歌を歌ったのではなかった。
ぼくは、どちらかというと人見知りする質なので、すぐにその場にとけ込むことが出来ない。
そのために、入学後すぐにあった歓迎遠足で、歌本を用意していたのにもかかわらず、歌うことをためらった。
歌を歌うというのは、ただでさえ勇気がいるものである。
それを、知らない人の前で歌うなんて、当時のぼくにはとても出来なかった。

理由はもう一つあった。
高校入学の翌日に、中学時代の友人が自殺するという事件があった。
ぼくにとって、事件のショックはかなり大きなものだった。
そのせいでふさぎ込んでしまい、とても歌う気になんかなれないでいたのだ。

さて、入学して3週間が過ぎた。
クラスにようやくまとまりが出てきた頃である。
だが、ぼくはまだ友人の死のショックから立ち直れないでいた。
親しい友人も出来ず、一人黙りこくっていたのだ。

その反面、焦りもあった。
その状態のままだとクラスに取り残されていき、暗い人だというイメージを持たれてしまう。
そういう人で1年間、いや3年間を過ごすのはまっぴらである。

そこでぼくは一大決心をした。
暗いイメージを完全に払拭するために、ある手段を採ることにしたのだ。
それは言うまでもなく歌を歌うことだった。
歌で目立とうと思ったわけである。

「どうせやるなら、一発で決めてやる!」
そう思ったぼくは、さっそく選曲に取りかかった。
すでに暗い人と思われているかもしれないので、中学時代の『赤色エレジー』はいただけない。
やはりここは、その時点のヒット曲に限る。

その頃のヒット曲といえば、あのねのねの『赤とんぼの唄』だった。
だが、押し入れで練習した声に、この歌は似合わない。
しかも、当時は誰もが歌っていた歌なので、インパクトが弱い。
ということで、他の歌を探すことにした。
ある程度歌唱力がいって、歌としても面白く、さらに誰でも知っている歌。
それらの条件に見合う歌を、ぼくは必死に探した。
そして、ようやくそれを見つけた。

その歌は演歌だった。
それゆえに、ある程度の歌唱力は必要になってくる、つまり押し入れ練習が生きるのだ。
また、その歌を歌っている人の顔も声も独特だった。
そのため、インパクトは充分だった。
しかも、発売されて1年近く経つのに、まだ根強い人気を誇っていた。
知名度は充分である。
それに加えて、当時の高校生が歌うような歌ではなかったから、意外性も充分だった。

高校受験の日、同じ試験会場には何と『初恋』の君がいた。
同じクラスなのに、彼女がどの高校を受けるのかを、ぼくはまったく知らなかった。
『赤色エレジー』以来、ぼくの中にわだかまりが出来てしまって、彼女を前にすると口を開けなくなったのだ。
「どの高校受けると?」の言葉さえ出てこなかった。
彼女もそれを感じていたのか、他の人には「どこ受けると?」と聞いていたようだが、ぼくには一言もそんなことを聞いてこなかった。
彼女の中には、きっとぼくの存在なんかなかったに違いない。
だから、ぼくがどの高校を受けるかなんて、関心がなかったのだろう。

とはいえ、同じ高校を受けたことが、ぼくには嬉しかった。
これが縁で、本格的な恋が芽生えるのかもしれないという期待があったからだ。
「運命は確実にぼくと彼女の距離を縮めつつある」
ぼくは、そんなことを思いながら、試験を受けたのだった。

それから一週間後、合格発表があり、ぼくも彼女も無事合格していた。
その発表から高校入学までの間ずっと、ぼくは彼女との間に起こるこれからの3年間を想像していたのだった。
その想像の3年間は、実にハッピーなものだった。
ぼくのそばにはいつも彼女がいて、その彼女のためにぼくは歌っている。
お互いの誕生日を祝い、クリスマスを共にし、いっしょに初詣に行く…。
なんて、バカなことを考えていたのだった。

さて、高校入学当日、ぼくは期待に胸をふくらませて校門をくぐった。
何を期待していたのかというと、これから始まる高校生活ではなく、もちろん彼女との未来である。
式中も、そんなことばかり考えていた。
みんな緊張しているさなか、ぼく一人だけがにやけていたのだ。
その後に、そんなバカな想像が、一気に崩れ落ちる瞬間が待っているとも知らないで。

入学式が終わった後、ぼくたち新入生は新しいクラスに移動した。
暫定的に席が決まり、みな席に着いた。
どんな人がいるんだろうと、ぼくは周りを見渡した。
その時だった。
一人の女子が、ひときわ際だって見えたのだ。
どこかで会ったことのあるような、ないような…。
とにかく、何とも言えない感情がぼくの胸をくすぐったのだった。
ついに、その後8年間思い悩むことになる『月夜待』の君が登場したのである。
その瞬間、『初恋』の君への想いはどこかに吹っ飛んでしまった。

たまたまその日の帰りに、『初恋』の君と同じバスになった。
ぼくを見つけた彼女は、珍しくぼくのそばに寄ってきて、高校についていろいろと話しかけるのだ。
しかし、ぼくは上の空だった。
『月夜待』の君が気になって仕方ない。
そう、『初恋』の君なんて、もうどうでもよくなっていたのだった。
そして、その日を境に、ぼくの歌は『月夜待』の君に向けられることになる。

『赤色エレジー』は裏声で歌う歌なので、その練習さえしておけば、多少の歌唱力不足はカバーできる。
また、当時の大ヒット曲だったので、話題性は充分である。
ぼくは、歌う曲目を決めてから遠足前日までの毎日を、裏声の練習で過ごしたのだった。

さて、遠足当日。
ぼくは修学旅行時と同じく、後ろの方の席を陣取った。
前回の修学旅行では、前から順番に歌っていったから、今回は後ろから順番ということになると読んでいたのだ。
案の定であった。
その読みは見事に当たり、後ろから歌うことになった。

ぼくは3番目だった。
もちろんHより先である。
最初の二人が歌い終わり、バスガイドが、「次は誰が歌いますか?」と訊いた。
すかさずぼくは、大声で「はい!」と言って手を挙げた。
「おお、元気がいいですねえ。何を歌ってくれますか?」
「赤色エレジーを歌います」
「えーっ」と、ここでバスの中がどよめいた。
きっとみんなの心の中に、「まさかこの歌を歌う奴はいないだろう」というのがあったのだろう。
ということで、つかみはうまくいった。

ぼくは深呼吸をして、「♪愛は愛とて、何になるー♪」と始めた。
ちゃんと練習通りに裏声が出ている。
キーも外さずに歌えている。
ぼくは心の中で、「やったー!」と叫んでいた。

ところが、ここで予想外のことが起こった。
てっきりみんなは聞き惚れていると思っていたのだが、ぼくが声を張り上げるたびに笑いが漏れてくる。
「おかしいなあ」と思いながらも、全部歌い終わると、拍手の代わりに大爆笑が起きた。
そこで、横に座っていた友人に「何がおかしいんか?」と聞いてみた。
その友人は、「おまえの声がおかしいんよ」と言った。
「えっ!?」
「オカマみたいな声出しやがって」
「オカマ声やったか?」
「おう」
ぼくは慌てて『初恋』の君を見た。
彼女も、もちろん笑っていた。
その笑いは、嘲笑しているように見えた。
いや、嘲笑していたのだ。
その証拠に、その後彼女はぼくを見るたびに、下を向いて嘲るように笑っていたのだから。

結局、『赤色エレジー』で彼女の心をつかめなかった。
しかも、それを歌ったせいで、嘲笑の対象にまでなってしまったのだ。
ということで、高校に入るまで、ぼくは再び人前で歌を歌わない男に戻っていった。

とはいうものの、歌うのをやめたわけではなかった。
「高校で勝負だ」という思いがあって、押し入れスタジオでの練習はしていたのだ。
もちろんその頃には、『赤色エレジー』は歌ってなかった。
何度か友人たちから、「しんた、赤色エレジー歌ってくれ」と頼まれたが、「誰が歌うか!」と言って断っていた。
その頃、主に練習していたのは、ジュリーの歌であり、ラジオで覚えたフォークソングであった。
そして、それが高校時代の大ブレークにつながるのだった。

結局、Hの歌が終わると、歌はもうどうでもよくなったようで、バスの中は急に騒がしくなった。
いちおう順番で歌ってはいたが、誰も聞いてなかった。
ぼくは最後の方で歌ったのだが、自分で何を歌っているのかわからないほど、騒ぎ声が大きかった。
ということで、この修学旅行も、Hの一人舞台に終わったのだった。

修学旅行が終わってから、『初恋』の君の態度が一変したように思えた。
いつも君はHの方を見ているのだ。
「これはいかん」と思ったぼくは、俄然やる気を出し、歌の練習をするようになった。

とはいえ、歌の練習といっても、何をやっていいのかがわからないので、とにかく大声で歌を歌ってみることにした。
何を歌おうかと思ったが、いざとなると何も思いつかない。
仕方がないので、本屋で平凡を買ってきて、それについている歌本を攻略することにした。

もちろん、その練習は自分の部屋でやった。
だが、どうも外に音が漏れているような気がして集中できない。
そこで、ぼくは急遽スタジオを作ることにした。
スタジオといっても、そんな大それたものではない。
要は音が漏れなければいいだけだから、そういう場所をスタジオにしただけだ。
その場所とは、押し入れである。
押し入れの中に入り、そこにある布団の中に頭を突っ込んで歌えば、いくら大声を出しても、音が漏れることはない。
それから毎日、ぼくはそのスタジオにこもり、最後のチャンスである秋の遠足に向けて、歌の練習をしたのだった。

ところで、その当時、つまり‘72年だが、その時買った平凡の歌本にどういう歌が載っていたのかというと、さすがにフォーク全盛の頃だったから、フォークソングが中心に載っていた。
よしだたくろう、泉谷しげる、かぐや姫、遠藤賢司、高田渡、加川良といった名前を知ったのもこの時だった。
しかし、その頃ぼくは、まだフォークに興味がなかった、というよりそういう歌を知らなかったので、それは飛ばして、歌謡曲ばかり選んで歌っていた。

さて、秋の遠足が近づいてきた。
いよいよ何を歌うかを決める時がきた。
Hはいつものように歌唱力の必要な、いわば正統派の歌を選んでくるだろう。
ぼくはというと、歌の練習をしてはいたものの、まだまだ歌唱力には自信がない。
ということは、ぼくが同じように正統派の歌を歌っても、逆効果になってしまう。
そこでぼくは、歌唱力よりも歌の内容で勝負しようと思ったのだった。
では何がいいか?
いろいろ悩んだが、やはり時代はフォークである。
フォークを歌おうと思い、先の歌本で、歌えそうなフォークソングを探した。
その中に、「これなら歌える!」という歌が一つだけあった。
それは、あがた森男の『赤色エレジー』だった。

中学のある時期まで、ぼくは歌にまったく興味がなかった。
それに加えて、人前で歌うのが大嫌いだったのだ。
仮に歌うことがあっても、うまく歌おうとか、感情を込めて歌おうとかいう意識はまったくなく、ただいいかげんに声を出しているだけだった。
例えば、音楽の歌唱テストの時がそうだったし、遠足でマイクが回ってきた時もそうだった。
ちなみに、中学2年の遠足の時に歌った歌は、『ヤン坊マー坊天気予報』だった。
もちろん、いいかげんにである。

その遠足の時だった。
Hという男がいたのだが、その男、えらく歌が上手いのだ。
それを聞いた担任の先生は、翌日のホームルームで「いやあ、昨日のHの歌にはしびれたねえ」と言って、Hを褒めちぎった。
先生は、前の学校でブラスバンドの顧問をやっていた関係で、音楽には造詣が深く、周りの先生たちからも一目置かれていた。
そういう先生に褒められたということで、いやが上にもHの注目度は上がった。
さらに、「他にも上手いのがいたなあ」と言って、何人かの名前を挙げた。
ということで、その何人かも注目度が上がることになった。

「ふーん、歌が上手いと注目度が上がるんか」と、ぼくはその時思った。
が、歌に関心がなかったせいもあり、その時はそれで終わった。

その翌年の5月に修学旅行に行った。
同じクラスには、後にぼくのオリジナル曲『初恋』に出てくる『君』がいた。
ということは、当然そこで目立たなくてはならない。
「何をやって目立とうか?」
ぼくはそれを考えた。
いろいろな案を考えたが、2年の遠足の時の例もあることだし、やはり目立つことといえば歌である。

しかし、それまでぼくは、歌に興味がなかったため、いいかげんにしか歌ったことがない。
さらに、「上手い」なんて褒められたことは一度もない。
それで彼女の気を引こうというのは無理な話だが、その時はけっこう楽天的だった。
真面目に歌えば何とかなる、と思っていたのだ。

ところが、一つだけ気になることがあった。
それは、同じクラスにはあのHもいたということだ。
Hが歌が上手いことは、すでに学校中で評判になっていた。
何せ、2年時の担任が褒め称えたのだから。
そのため、誰もがHの歌を聴きたがっていたのだ。

修学旅行時、バスの中でHは前の方の席に座っていた。
一方ぼくは、最後列に座っていた。
いよいよ歌の時間になり、「前と後ろ、どちらから先に歌うか」ということになった。
一度はじゃんけんで決めようということになったのだが、旅行委員が勝手に「歌は前から順番に歌う」と決めてしまった。
ということで、Hが先に歌うことになった。

Hは尾崎紀世彦の『さよならをもう一度』という歌を歌った。
歌唱力のいる歌なのだが、Hはこともなげに、その難しい歌を歌いこなした。
彼が歌っている間、バスの中はシーンとしていた。
全員が聞き惚れているのだ。
もちろん、その中には『初恋』の君もいた。

以前はそんなことをやらなかったが、日記のメインをブログにしてから、写真や号外を除いては、毎日23時59分59秒を更新時間に定めている。
日記ということなので、その日の最終時間を更新時間にしたわけである。
たとえそれが翌朝になろうが、翌夕になろうが、その姿勢は変えていない。
ということで、今日の日記も、23時59分59秒の更新にしている。
ちなみに現在の時間は、翌1時5分である。

さて、このサイトを始めた2001年1月16日から今日の23時59分59秒までに、いったい何人の人が訪れたのかというと、167,224人である。
単純に5で割ると、1年あたりの訪問者数は3万3千人程度になる。
まあ、自分のことばかりしか書いてないし、アクセスを増やす努力なんてほとんど行ってないから、妥当な数字だろう。
ちなみにこの数字は、ページを開いた数ではなく、訪れてくれた人の数を書いている。
それゆえに、アクセス数○件という呼び方を採らず、○人という呼び方にしているのだ。

このサイトを立ち上げた時は、ごく身近な人にしか教えてなかったので、訪れる人は日に10数人しかいなかった。
そのうち、日記の内容を一般ウケするものに変えたり、サーチエンジンに登録したりしたので、訪問者が少し増え、50人ほどになった。
その状態が、急激にアクセス数が増えることになるブログ開始まで続いたわけだ。

その50人程度の時代に、どこからどういう人が訪れているのかが知りたくなって、アクセス解析を設置したことがある。
それを見てみると、毎日来ている人は30人程度で、あとは検索でたどり着いた人だということがわかった。

その30人の中には、掲示板にコメントを書いてくれる方もいれば、つかず離れずの方もいらっしゃる。
どうしてそれがわかるのかいうと、コメントを書いてくれている方は、アクセス解析でそのコメントをくれた時間を見れば、「ああ、○○さんはこのホストか」というのがわかる。
ということで、いつも解析に載っているホストからコメントホストを除いたものが、つかず離れずの方のホストということになる。

そういう人の中に、けっこう古い時代から見てくれている方がいる。
アクセス解析をやめてからしばらくは知らない。
ブログを始めて、それにアクセス解析が付いていることを知ってから、再びそれを見るようになった。
そして、今もなお、その方は来ているのを知った。

アクセス解析は、その人が住んでいる地域もわかるのだが、その方の住んでいる地域は、ぼくが東京にいた頃に大変お世話になった方が住んでいる地域と同じなのだ。
もし、それがその人なら、きっとこういう経緯をたどったのだろう。
「最初は何気なく見ていた。
ある時のこと、心当たりがあることが書いてあった。
それで、『もしかしたら、しろげしんたというのは、あのしんたのことじゃないか?』と思うようになった。
ある時、そのしろげしんたという人が歌を発表した。
その歌は聴き覚えのある歌だった。
やっぱりそうか。
あのしんただったのだ」
というところだろうか。

まあ、その方の住んでいる地域は、100万人以上の人が住む地域だから、その可能性は低いかもしれない。
しかし、もしその方だったら、一言お礼を言っておく必要がある。

あの頃は、本当にお世話になりました。
今、こうやって、バカなことを書いていられるのも、あなたのあの時のお力添えがあったからです。
本当に、ありがとうございました。

ということで、Kさん。
それがもしあなただったら、連絡してくれませんでしょうか?
ぼくは、一度あなたと、お茶の水にギター弦を買いに行った男です。

このページのトップヘ