吹く風

人生万事大丈夫

その翌日、とにかく何かしないとと思い、アルバイトニュースを片手にバイト探しを始めた。
もう4月に入っていた。
アルバイトニュースを開いてみると<小学館>という文字がぼくの目に飛び込んできた。
『おお、これは幸先いい。しかも職種が企画と来ている』 出版関係に興味を持っていたぼくは、すぐにここを選んだ。

電話してみると「面接するから来てくれ」ということだった。
ぼくは慌てて履歴書を書き、その会社まで持っていった。
そこにはスーツを来た5,6人の男性社員がいた。
面接らしきことをして,「明日から来てくれ」ということになった。
『何だ。面接なんか意外と楽やん』とたかをくくった。
この慢心が後々命取りになるのだった。

そのおみくじが現実になる時が来た。
3月、受験した大学に全部落ちた。
真っ暗な時代が幕を開けた。

受験したすべての大学に落ちたことで、「もう大学なんかに行くものか!」という気分になっていた。
「とりあえず夜間の短大でも入って、そこで将来のことを考えたらどうか?」という知人の助言もあり、近くのK短大を受けることにした。

ここは願書を出すだけでOKという短大で、授業料もさほど高くなく、場所は家から1、5Km位の位置にあった。
ぼくは自転車で願書を取りに行った。
退屈そうな男の事務員が、面倒臭そうに「ああ、ここを受けるんかね。ふーん」と言いながら願書をくれた。
家に願書を持って帰り、早速書き始めた。

翌日、願書の続きを書いていると突然テレビから「北九州市にあるK短期大学が倒産しました」というニュースが流れてきた。
唖然としたぼくは「あのおっさん何も言わんかったやないか!」と文句をいいながら願書を破り捨てた。
「さあ、どうしよう?」
ぼくはそこからのことを何も考えられずにいた。

浪人1年目の正月(昭和52年)に太宰府天満宮に行った。
ここは好きな場所で今でもちょくちょく行っているが、この時は受験生だったので、それまでとは違う何か張りつめたものがあった。
「天神様、奇跡が起こりますように」と祈り、おみくじを引いた。
一瞬固まってしまった。
<大凶>だった。
「これはいかん!方位が悪かったんだ」と思い、慌てて電車に駆け込み、福岡市内へと向かった。

天神に着き、警固神社におみくじを引きに行った。
また固まった。
<大凶>だった。

何かの間違いだと今度は住吉神社に行った。
勘弁してくれ。
またまた<大凶>だった。
泣きたい気持ちで愛宕神社に行き、「これが正しいんだ」と念じながらおみくじを引いた。
結果は<凶>だった。
目の前が真っ暗になった。

予備校時代というのは、ぼくにとって小学校から続く一つの流れに過ぎなかった。
何ら生活に変わりはなかった。
相変わらず怠け者だった。
好きなこと以外にエネルギーを使うことをせず、暇があれば寝てばかりいた。

さて、一年間全然勉強しなかったのかというと、そうでもなかった。
受験前の一ヶ月間はみっちりやった。
1月に高2の同窓会があった。
みな大学や短大に行っている。
予備校通いはぼくを含めて3,4人しかいなかった。
引け目こそなかったが、やはり何かが違う。
何か余裕みたいなものがあって、充分青春している、という感じがした。
またこいつらと真剣に遊びたいな、という気持ちでいっぱいになった。
でも、そうするためには大学に入らなくてはならない。
そのためには受験というものに興味を持たなければならない。
もうその頃には、予備校には行ってなかった。
一生懸命勉強している人の邪魔をしたら悪い、という理由で勝手に退学したのだ。
「飽きた」というのが本音だったのだが。

とにかく机に向かった。自宅浪人の開始である。
まず不得手科目の克服だ、と英語の参考書を開け取り組もうとした。
その時、ぼくはふと英語の前にもっと不得手なものがあることに気がついた。
「そうだ! おれの一番不得手なものは勉強だったんだ!」
もう笑うしかなかった。
勉強の仕方がわからない。
かといって、今さらそんなことを言っても始まらないので、英語は「試験に出る英単語」で単語だけ覚えることにした。
日本史は、年表を覚えることに専念した。
意味もなく年表を覚えるのも重労働だった。(後年大の歴史好きになるのだが、この頃はまだ何の興味もなかった)
国語は、詩作と姓名判断でまかなった。
受験勉強とはいっても、一夜漬けを一ヶ月続けたに過ぎなかった。
結局、また落ちた。

              < 予備校編 完>

詩と読書とギターの予備校時代・・・
いや、もうひとつあった。
姓名判断である。
ぼくは自分の名前が嫌いで、いつか名前を変えてやろうと思っていた。
予備校に入った頃、野末陳平さんの「姓名判断」という本を買った。
それから姓名判断を、自分で研究するようになった。
今でもそうだが、とくに自分の興味あることに関しては、人の受け売りが嫌だ。
とにかく自分流を作り上げようとする。
姓名判断もそうだった。 
オリジナルを作ろうとした。
これは今もって完成していないのだが、いいところまでは来たつもりだ。

姓名判断はいい勉強になった。
それから何年か後、社会に出てから一応名刺交換をする身分になった時に役に立った。
初対面の人の性格や行動がわかるのだ。一目名前を見るだけでいい。
とくに性格は、外れた覚えがない。

予備校時代、この姓名判断の勉強が意外なところで役に立った。
国語である。
姓名判断をやっていると、自然に漢字を覚えるという特典が付いてくる。
ぼくが国語だけ偏差値が良かったというのは、姓名判断と無縁ではなかった。

この頃から中原中也に傾倒していった。
中也の年表を読んでいくと、彼も文学にのめり込み学校の成績ががた落ちになっていった、と書いてあった。
単純なぼくは「おれと同じやん」と、中也と同じ道をたどっている自分を誇らしげに思っていた。
中也、中也の毎日だった。

中也のどこに傾倒していったのか?
詩、それだけです。(生き方などはあまり参考にはならなかった)
ぼくは予備校時代まで、詩は作っていたものの、人の詩集なんて読んだことがなかった。
詩を作り始めたのは高校の頃からで、吉田拓郎の歌から入った。
その後ボブ・ディランに走り、ディランのわけのわからない詩を真似ていた。
無理矢理韻を踏ませたり、内容が突然飛んだりで、今読んでもよくわからない。(そういえば、ディランがあるインタビューで「ぼくの詩はでたらめです」と言っていたのを本で読んだことがある。)
詩を読むとなるとチンプンカンプンだった。

これはすべて現国のせいだと思っている。
だいたい詩の鑑賞というのは、読む人それぞれで感じ方が違うのであって、決まった答なんかあるはずもない。
それを重箱の隅をつつくように、「この言葉は何を象徴しているか?」とか「作者の意図するものは何か?」なんてやるものだから、暗号解読みたいな読み方になってしまう。
ということで、詩を作るのは好きだが、読むのは嫌いという状態に陥っていた。
その状態を救ってくれたのが中也の詩だった。

予備校帰りに本屋に立ち寄った時、中原中也という変な名前が気になり、その本を手にとってみた。
『朝の歌』や『臨終』という教科書に出てくるような作品で始まっていたせいもあり、相変わらずぼくは、―「この言葉は何を象徴しているか?」読み― をやっていた。
うんざりしてページをめくっていたら、『頑是ない歌』他数編に出会った。
暗号解読なんかとは程遠い詩だった。
「愚痴じゃないか。愚痴を詩の形に並べただけだ。こういう詩もあるんだ。これは面白い」とぼくはその本を購入し、それ以来中也への傾倒が始まった。
自ずと自分の作風も変わっていき、この長い浪人時代が終わるまで、ずっと愚痴ばかり書いていた。
投稿もこの頃から始めたが、当時のぼくの詩を読んだ人は、ぼくの愚痴を読んだことになる。

しかし、やはり大学には合格しなかった。
母は「いつも勉強せんでギターばかり弾いとるけ落ちるんよ」と言って、何も同情しなかった。
結局、予備校に通うことになった。
が、ここでも勉強しなかった。
朝は遅刻し、昼飯を食ったらすぐ帰る生活が始まった。
遅刻は毎日で、予備校とは直接関係のない清掃のおっさんからも顔を覚えられ、「おう、また遅刻か」と言われるようになった。

授業にも実が入らず、詩を作ったり歌をうたったりしていた。
第一回目の公開模試の時だったと思うが、、数学がまったくわからず、時間がきても白紙状態だったことがある。
『どうせ白紙なんやけ、出さんでもいいやろ』と思い、答案用紙をくしゃくしゃにして家に持って帰った。
その夜、担任から「数学の答案用紙が出てないけど、どうしたんか?」という電話があった。
「はあ、全然わからんかったけ、持って帰りました」と答えると、担任はあきれた声で「はあ、そうですか」と言って、電話を切った。
翌日、いつものように遅刻して予備校に行ったぼくは、教室のドアを開くなり大爆笑の出迎えを受けた。
よく見ると担任がぼくのほうを指差しニヤニヤしている。
後で友人に「何があったんだ?」と聞くと、「担任が『昨日の模試で、数学がわからんと言って、答案を出さずに帰った奴がおる。白紙でも答案は出すように』と言った時にお前が入ってきた。そこで担任が『こいつです』と言ったので大爆笑になった」ということだった。

予備校時代はよく本を読んでいた。
そのおかげかどうかはわからないが、国語が異常によく、偏差値が東大の合格ラインに達していた。
しかし、英語と数学が最低の偏差値で、この成績で入れる大学なんてなかった。
他の教科は日本史がかろうじて平均以上だったぐらいだ。
勉強しないくせにこの結果を見て「おれには国立文系は合ってない!」と勝手に決めつけ、教科の少ない私立文系に移籍した。
結果は同じで、ここでも勉強しなかった。

ぼくはわりと長い浪人時代を経てきている。
昭和51年春から昭和56年春までの5年間だ。
進学校だったにもかかわらず、ぼくは高校三年になっても進路が定まらなかった。
担任から「しんた、お前はどうするんか? 進学か?就職か?」とよく聞かれたものだった。
そのたびにぼくは「さあ?どうしましょうか?」と、他人事のような返事をしていた。
親が進学を希望していたので、とりあえず進学希望としたものの、音楽と文学にうつつを抜かしていたぼくに、合格する大学なんてあるはずもなかった。

課外授業や模試なんかも一切受けたことがなかった。
担任も、ぼくがいつもボーっとして勉強してないのを知っていたので、一般受験は無理だと思ったのか、F大の推薦入学を薦めた。
「どうだ、推薦にしてみらんか?するならすぐ手続きをとってやるぞ」
ぼくは『どうでもいいや』という気持ちで「じゃあお願いします」と言った。
「そうか、そうするか。よし、それなら・・・。・・・・・締め切りは今日やった。まあ、一般受験で頑張れ」 担任はその後、ぼくの進路について、とやかく言わなくなった。
一般受験と決めてからも、ぼくは何も勉強しなかった。
相変わらず、課外も受けずに、早く家に帰ってはギターのコピーや作詞作曲などをしていた。
そんなことをしながら三学期になった。ぼくの関心事は「大学に受かるか」よりも「無事卒業できるか」だった。
『卒業できないと、カッコ悪いな』ぐらいの感覚で、ギターを引く合間に少し勉強した。
何とか卒業は出来た。

【1】
以前勤めていた会社にモリタという男がいた。
ぼくがその会社を辞める1年前(今から10年前)に、中途採用された。
当時ぼくは、楽器とCDの二つの販売部門をまかされていた。
その前の年にリニューアルで、この二つの部門が1Fと2Fに分割されたために、ぼくは1Fと2Fを行ったり来たりしなくてはならなかった。
これは重労働だった。

当時のぼくの部下は計8人。振り分けは1F(CD他)7人、2F(楽器)1人だった。
1Fはともかく、2Fはその一人が公休だったり、食事をとる時には、ぼくが入らなければならなかった。

楽器部門は専門分野であるために、その一人がいる時でも呼び出されることが多かった。
『このままでは身が持たん』と思い、「2Fにもう一人入れて下さい」と上司に頼み込んだ。
そこで募集をかけ、採用されたのがモリタ君だった。

【2】
面接の時はぼくも立ち会った。
一見すると、堅いサラリーマン風の男で、楽器をやるようには見えなかったが、履歴書を見ると、特技のところに「キーボード演奏」と書いてある。
『よかった』とぼくは思った。素人だったら、教え込むのに時間がかかってしまう。
「明日から来てくれ」ということになり、面接は終わった。

そのあと、ぼくはモリタ君を楽器の売場に連れて行き、打ち合わせをした。
「それにしても特技がキーボードというのは頼もしいね。バンドで演奏でもしよったんね?」とぼくが聞くと、間を置いてモリタ君は「いいえ」と言った。
「なら、ピアノかエレクトーンでも習っとったんね?」と聞くと、また少し間を置いて「いいえ」と答える。
ぼくは「?」状態になった。

角度を変えて聞いてみることにした。
わざわざ特技はキーボード演奏と書くのだから、ヤマハ,ローランド,コルグいずれかのシンセサイザーぐらいは持っているだろうと思い「機材は何を持っとるんね?」とぼくは聞いてみた。
モリタ君は、よくぞ聞いてくれたとばかりに目を輝かせ、今度は素早く「カシオトーン(当時39800円位のやつ)です」と答えた。
「カシオトーン?」
「そうです」ときっぱり言った。
『おいおい、カシオトーンが弾けるくらいで、特技なんかにするなよ。そのくらいのレベルなら趣味の欄に書けよ』とぼくは思った。
しかし贅沢は言ってられない。「まあ何とかなるだろう」と思い直し、その日はモリタ君を帰らせた。

【3】
翌日からモリタ君は登場した。
まず2~3日つきっきりで、会社のシステムや接客のいろはなどを教え込んだ。
が、モリタ君は物覚えが悪い。
さらに困ったことに人の話を全然聞いていない。
例えば、「主任、これはどういうことですか?」と聞いてきたので、「これは・・・」と教えようとすると、急に歩き出して質問とはまったく関係ない物を手にとって珍しそうに眺めている。
「あんた人にものを尋ねとって、他のことをせんでもいいやろ!」というと、「ええっ? ぼくが何か言いましたかねぇ」
と言う。

また、こういうことがあった。
ぼくが「今日メーカーから電話が入るはずやけ、もしかかったら電話を(1Fに)回して」と頼んだ。
モリタ君は急に怪訝な顔をして、少し間を置いて「しゅ、主任! 電話を回すとはどういうことですか?」と言った。
ぼくは唖然として近くにあった電話の受話器のコードをつかみ、受話器をグルグル回しながら「電話を回せとは、電話を取り次げということ!」と大声で怒鳴った。
『こいつは馬鹿だ』とぼくは思った。

【4】
当時ぼくは32歳だった。
ある日雑談の中で「モリタ君はいくつかねぇ?」と聞いた。
モリタ君はムッとした顔をして「言いたくありません」と言った。
「どうして言いたくないんね?」
「恥ずかしいですから」
「はぁっ? 何で自分の歳を言うのが恥ずかしいんね? 男やろ、何歳になったんね?」
ぼくがちょっと声を荒げて言うと、モリタ君はしぶしぶ「29歳です」と言った。
「29歳のどこが恥ずかしいん?」と聞くと、モリタ君は吐き捨てるように「独身ですから」と言った。
ぼくは頭に来たふりをして言った。
「あんた、おれを馬鹿にしとるんか?29歳の独身が恥ずかしいんなら、32歳で独身のおれはどうなるんか!?」
モリタ君はブスッとして「すいません」と言った。
その後もことあるたびに、ぼくは意地悪く「モリタ君はいくつかねぇ?」と聞いてやった。

【5】
ある日モリタ君が「主任、もうそろそろ呼び捨てで呼んでくれてもいいんじゃないですか?」と言ってきた。
ぼくが「えっ、誰のこと?」と聞くと、モリタ君は「わたしのことです・・・」と答えた。
ぼくがモリタ君のことを、他の社員のように呼び捨てではなく、「君」付けで呼ぶので距離を感じたのだろう。

ぼくは「なんと呼ぼうと、おれの勝手やろ?モリタ君はモリタ君やろ?ちがう?」と言った。
「そうですけど、もうそろそろいいかと思って・・・」
「この会社でおれのこと主任と呼びようのは、あんただけやろ。他はみんな『しんちゃん』と呼びようよ。あんたが『しんちゃん』と言うたら、おれも考えてやってもいいよ」
「いや、それは・・・」
ぼくはその後もいっとき『モリタ君』で通した。

ある日「モリタ君」と言うのが面倒臭くなった。
そこでぼくは「モ」と呼んだ。
「モはないでしょう?」とモリタ君は言った。
「あんた以前、呼び捨てで呼べっち言うたやん。モでよかろうがね」
「モはやめてください」
「いいや、モでいく」
ぼくはそれから会社を辞めるまで『モ』で通した。

【6】
モリタ君はよく遅刻をしてきた。
並みの遅刻じゃない。
10時開店の店だったので、みんな遅くとも9時半には店に入っている。
遅刻しても10時には来ている。
ところがモリタ君は違った。
午後1時、2時にノコノコとやってくる。
ひどい時には5時に来たこともある。

その5時に来たときの話だ。
その日の前日、モリタ君は他の部門の人間から飲みごとの誘いを受けていた。
ぼくはそのことをある人から聞いて知っていた。
モリタ君が飲みに行くメンバーは、モリタ君とそう親しいわけではない。
ただモリタ君を酒の肴にしてやろうと思って誘ったのだ。
モリタ君の遅刻の言い訳は「熱が出ましただった。
「熱が出たんなら、別に無理して出てこんでもよかったのに。今頃来ても何も仕事はないよ。帰り!」とぼくは言った。
モリタ君は「熱はもう下がりました。仕事をさせてください」と泣きそうな顔をして勝手に売場に行った。

その日は急遽全員残業になった。
帰りは9時を回りそうだ、ということだった。
ぼくはモリタ君に「熱があって遅れたんやったねぇ。残業せんでもいいよ。今日は早く帰り。明日また遅刻されたら困るけ」と言った。
モリタ君は「しゅ、主任、もう熱は下がりました。残業させて下さい」とまた泣きそうな顔をした。
ぼくは認めなかった。
声をわざと荒げて「さっさと帰れ!」と言った。
モリタ君は不機嫌そうに「はい、わかりました」と言って、みんなが残業している場所には現れなかった。

でもぼくはモリタ君が帰らずに売場にいることはわかっていた。
トイレに行くと言っては、わざと2Fの売場を通って行った。
人影が見えたが、わざと気づかないふりをしていた。
ぼくが30分おきにそれをやったので、今度はトイレの裏の倉庫に隠れた。
たまたまそこを通りかかったやつに、「おい。ここに誰かおらんかったか?」と聞いた。
「いや、誰もいませんでしたよ」とそいつは言った。
ぼくは「ふーん」と言ってその場を去った。

結局残業が終わったのは10時を過ぎていた。
モリタ君は10時までトイレの裏の倉庫に隠れていたことになる。
でも、ぼくが残業を終えて倉庫を覗いた時には、もうモリタ君はいなかった。
ぼくが倉庫を覗くちょっと前に店を出たそうだ。
そして、メンバーと待ち合わせて飲みに行ったということだった。
だが、懲りたのだろう。
その翌日からモリタ君はあまり遅刻をしなくなった。

【7】
モリタ君には変な特徴があった。
興奮すると、おでこにタンコブのような突起物が出るのだ。
ぼくはこのことは知らなかったが、他の人が教えてくれた。

社内でバイキング形式の宴会があった。
立食だったが、テーブルとイスが何セットか用意されていた。
たまたまそのテーブルにMちゃんという子が座っていた。
Mちゃんという子はきれいな顔をしていたので社内でも人気があった。
その日はミニスカートで登場していた。

誰かがMちゃんの前にモリタ君を無理矢理座らせ、「Mちゃん今日はミニスカートだ」と耳打ちした。
みんなはモリタ君のおでこのことを知っていたので、どういう反応をするか注目していた。
モリタ君は次第に鼻息が荒くなっていった。
そして体をのけぞらせ、テーブルの下に視線を落とした。
すると、見る見るおでこが膨らんでいった。
会場は大爆笑になった。
が、モリタ君は相変わらず体をのけぞらせた状態で、鼻息は荒くおでこは膨らんだままだった。

【8】
宴会といえば、モリタ君はよく歌わされていた。
ヘタだった。
間の取り方が悪く、彼が歌うとちぐはぐな歌になり、大爆笑になった。
歌い終わったあと「モリタ君、歌うまいやん。歌手になれるよ」などと声がかかると、「それほどでも」と気障な笑みを浮かべていた。自分ではうまいと思っており、歌に関してはかなりのプライドを持っていたようだ。

【9】
朝礼時はいつもラジオ体操をやっていた。
モリタ君はその時も、みんなの前でやらされていた。
体が堅く動きがぎこちなかった。ロボコップが体操をしているように見えた。
みんなはそれを見たいため、いつもモリタ君を体操当番に指名した。
店長が「今日の当番は誰か?」と聞くと、決まって「モリタ君ですと言う声が聞こえた。
店長もそれを見たかったのだろう。「そうか、モリタか」と言いながら嬉しそうな顔をしていた。
体操が始まると、誰も真面目にせずにモリタ君の手や足の動きを見ていたものだった。

【10】
モリタ君がぼくの部門にいたのは半年ぐらいだった。
組織の変更に伴い、ぼくは楽器部門を離れた。
同時にモリタ君は商品の荷受けのほうにまわされた。

そこでのエピソード。
お客さんが買っていった商品に不良が出て、配送の人が交換して持って帰ってきた。
「おい、モリタ。不良品ここに置いとくぞ」と配送の人が言った。
「はい。これは不良品ですね。わーかりましたっ」とモリタ君は元気よく答えた。
それから2,3時間ほどして、その商品の部門の人が商品を引き取りに来た。
「モリタ君、さっき配送の人が不良品を持って帰ってきたと思うんやけど・・・」と聞くと、モリタ君は「知りません」と答えた。
そこでその部門の人は、配送の人に問い合わせた。
「確かにモリタ君に渡したよ」と配送の人は言ったが、モリタ君は「そんなこと知りません」と言った。
でも、不良品を持って帰った時のやりとりを見ていた人がいたので、モリタ君の嘘はすぐにばれた。
モリタ君は不良品の行方の追求を受けることになった。
結局不良品は捨てたということだった。
モリタ君はみんなからボロクソに言われ、弁償することになった。

この事件から少ししてぼくは会社を辞めた。
ぼくの送別会にはモリタ君も参加していた。
しっかりヘタな歌を聴かされた。
その後モリタ君と会うことはなくなったが、ある時風の噂でモリタ君が会社を辞めたと聞いた。
コックになると言っていたそうだ。
おそらく、履歴書には「特技:料理」と書いたのだろう。


                  完

トキコさんは48歳。149cmとやや小さめ、顔はモンゴル系と言われる。
夫は貴金属職人、2歳年下である。
最近48年が何であったのかをよく考える。
友人は多いほうだが、そういう話はしない。
夫はそういう話とは無縁の人である。

トキコさんはパート勤めをしている。
自宅の近くにあるスーパーだが、トキコさんはそこのチーフが嫌いであった。
よく歳のことをからかわれるし、何よりも彼のことをセクハラ男だと思っているからだ。
とにかく言うことがエッチなのだ。
戦後まもなく生まれたトキコさんは、元来そういうこと話が苦手であった。
それを見越して、そのチーフはその手の話をする。
そこが嫌いなのだ。

トキコさんは犬を飼っている。
小さなお座敷犬だ。
生まれて二ヶ月の時にもらってきたのだが、最近気になっていることがある。
性欲が旺盛なのだ。
ほとんど毎日腰を振っている。
トキコさんも最初は「こんなもんだ」と思って気にしていなかったのだが、例のセクハラチーフに「それは異常だと言われてから気になりだした。
そのことがあってから、その最中に思うようになった。
「頼むから私の腕を使ってしないで欲しい」
ちなみにトキコさんは指も貸している。

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