吹く風

人生万事大丈夫

 前に勤めていた会社に、何かあるたびに『打ち上げ』と称して、鉄板焼きパーティをする上司がいた。場所はその上司の知り合いの店で、上司はそこでいい顔をしたかったわけだ。
 ま、それは別にして、その店の鉄板焼きはかなりおいしく、量も多く、満足に値する店だった。

 そのパーティ、ぼくを含めて幾人かがいつもイライラしていた。その上司は自分が下戸というのに加えて、我がよければいいという人間だったので、酒飲みへの気配りが全然出来なかったのだ。
 せめて前日にでも「打ち上げするぞ」と言っておいてくれれば、車に乗らず電車やバスを利用して出勤してきたのに、車で出勤してきているその日に、突然「今夜打ち上げね」なんて言い出すもんだから、酒飲みとしては面白くない。鉄板焼きの味をさらに引き立てる、生ビールが飲めないのだ。
「車を置いて帰ればいいやん」
 と、気配りの出来ない上司は言っていた。しかし会社付近は車上荒らしが多いのに、車を置いて帰ることなんて出来ない。

 とはいえイライラしながらもぼくは、そのパーティに何度も参加した。気配りの出来ない上司へのイライラよりも、その鉄板焼き屋の味が勝っていたからだ。

 はい、学生時代によくやりましたです。「クラスの女子の中で誰が一番きれいか?」などというランク付けをね。いつも一番は決まっている。きれいな人の順位なんて整形でもしない限り、そうそう変わらんものですよ。

 そのことに気づいたぼくたち男子は、それでは面白くないというので、「女子の中で誰が一番性格が悪いか?」というランク付けを始めたんです。誰もが、生意気なことばかり言っている、あいつが当然選ばれると思っていたのです。

 ところがです。選ばれたのは、なんときれいランキング一位の彼女だったのです。これはちょっと意外だったですね。何でこういう結果になったのだろう。

 今にして思えば、彼女はあまりにきれいすぎて、ぼくたち男子にとって彼女は、口を利くのも憚られるような存在だったのです。つまり彼女と喋った人はあまりいなかったわけで、実は彼女の性格なんて、ぼくたち男子はよく知らなかったのです。見た目だけで、勝手に冷たそうだと判断していたわけですね。

 ま、そんなことよりも、あんなランク付けに必死になっていた、ぼくら男子の性格の方が悪かったのではないか。と、今のぼくは考えるのであります。

2002年2月18日の日記です。

 ホームページに日記をつけ始めて一年以上になるのだが、最近は日記を書き終えると、それなりの満足感を覚えるようになった。日常生活で満足感というのは、そう味わえるものではない。その満足感を毎日味わえるのだから、これは幸せなことだと言わなければならない。 

 矢吹丈がホセ・メンドーサとの試合で、
「おっちゃん、最後までやらせてくれや」
 と言ったのも、試合の勝ち負けではなく、満足感へのこだわりがあったのだと思う。不幸な終わり方だったと捉える向きもあるが、ジョーは幸せな人間だったとぼくは思っている。

 これまでぼくは、大した生き方をしてこなかった。なぜなら、日記を書くまで、その満足感を味わったことがなかったからだ。つまりジョーが言ったように、「そのへんのやつらのように、くすぶって」いたわけだ。

 この歳になって初めて満足感を得られるものに出会った。これで、若い頃にぼくが理想とした「矢吹丈」に一歩近づいたことになる。このまま続けていって、最後は「真白な灰」になって散っていこうと思っている。

2002年2月17日の日記です。

 かつて、日曜日の夜はいつも悲しかった。
 小学生の頃は、6時頃、そう「いなかっぺ大将」や「ハクション大魔王」をやっていた時間くらいから、だんだん悲しくなっていった。その後の時間帯にあった、「サザエさん」や「柔道一直線」や「サインはV」「アテンションプリーズ」「恋のイニシャルSH」などを見る頃にはもう泣き出しそうになっていた。
 中学の頃は、「笑点」のある時間帯から悲しくなっていった。「おれは男だ!」や「飛び出せ青春」の時間帯には落ち込んでいた。
 高校の頃は、「ヤングおー!おー!」の時間帯にすでに落ち込んでいた。

 何でそんなに悲しんだかといえば、翌日学校に行かなければならないからだ。そこには、「まだ宿題をやってない!」という非常に大きな問題が含まれていた。
 ぼくは別に学校に行くことは嫌いではなかった。勉強が大嫌いだったのだ。その大嫌いな勉強を、「何も家にまで持って帰らせなくてもいいじゃないか」と、ぼくはいつも思っていた。さらに土曜日には、「先生は意地悪だ。わざわざ土曜日に、こんなにたくさんの宿題を出しやがって」と思っていた。

 小学校の宿題で一番嫌いだったのは、漢字の書き取りだった。
「何で、一つの文字を20回も30回も書かなければならんのか。必要な文字なら自然に覚えるやないか。くだらんことさせやがって」
 ブツブツとこんなグチを言いながらやったものである。後年この主張は、姓名判断で自然に漢字を覚えたことで証明された。
 算数の小数点の計算(特に筆算)も嫌いだった。
「生きていく上で、小数点というのが何の役に立つというんか。九九だけで十分やないか」
 と思ったものである。しかし、この主張は、消費税によってはかなくも砕け散ることになる。

 夕方になると母が仕事から帰ってくる。
「お帰り」「ただいま」の後、必ず口から出る言葉は「宿題は終わった?」だった。
 小学校低学年の頃は真面目に、「終わった」と答えた。しかし高学年になるとだんだんずるくなり、「あと半分」と答えていた。実は何もやってなかった。それがばれて、いつもテレビを見せてもらえなかった。
 中学になると諦めたのか、何も訊いてこなくなった。その頃から、気にはかけながらも、ぼくはあまり宿題をしなくなった。当然のことながら、予習や復習はいっさいやらなかった。
 高校に入ると、さほど宿題は出なかった。しかし、英語のリーダーや国語の古典のある日は要注意だった。先生が「今日は17日だから、出席番号17番訳してみ」とやる。これはある意味、宿題よりひどかった。当たる日がわかっているのだから、予習を何もやってないと始末が悪い。
 しかし、ぼくは予習はやらなかった。リーダーなどの時間の前に、教科書ガイドを丸写しにしていたのである。これでよく難を逃れたが、抜き打ちで指されると、もうどうしようもなかった。こうなったら開き直るしかない。原文を読むだけ読んで、あとは「わかりません」と言って座っていた。そのことで先生から文句を言われたり、叩かれたりしたが、いつも知らん顔を決め込んでいた。

「宿題がなかったら、学生時代はどれだけ楽しかっただろう」
 と、今でも時々思うことがある。
 だけど、
「もし宿題がなかったら、消費税の計算が出来なかっただろう」
 それを考えると、宿題に感謝しないとね。

2006年5月30日
 前に触れておいたが、酔っ払いのおいちゃんはやはり死んでいたらしい。
 凍死だったということだ。内心肝臓をやられて死んだと思っていただけに、肩すかしを食らった感じである。やはり酒飲みは酒飲みらしく、最後は肝硬変か肝臓ガンで花を飾ってもらいたかった。

 しかし散々人に迷惑をかけておいて、何の挨拶もないというのは失礼だろう。迷惑をかけた人すべてに、一言わびを入れて死ぬべきではないのか。
 ぼくも寝小便の後始末を何度もやってやったのだ。幽霊でも何でもいいから、手みやげ提げて、一言わびに来い!


2007年11月6日(当時やっていたブログの、最終回の一日前の日記です)
 このブログを書いていて、一番印象に残ったのは、酔っ払いのおいちゃんだ。
 店に来ては、お客さんにクダを巻く。冬場は店に居座ってなかなか帰ろうとしない。挙げ句の果てに寝小便だ。
 まあ、そういうのがこの人の地なら目も瞑ったのだが、実はこのおいちゃん、えらく計算高い人だった。

 寒い日や雨の降る日には、決まって警察沙汰になることをやっていた。警察署の前でさんざん悪態をつき、相手にされないとわかると死んだふりをしたりして、留置場に泊めてもらおうとする。
 また、従業員何人かで抱えて外に放り出したことがある。その時酔っ払っているはずのおいちゃんは、放り投げようとするぼくたちに向かって、静かな声で「そおっと置け」と指示したのだ。

 あとで気づいたことだが、おいちゃんの行動の半分はパフォーマンスだった。そこまで酔ってもないくせに、大袈裟に酔ったふりをしていたのだ。
 なぜそんなことをやっていたのかというと、一人で寂しかったからだ。つまり誰かに構ってもらいたかったわけだ。
 それならそういう態度でいればいい。変に我を張るもんだから誰にも相手にされなくなり、結局ああいうパフォーマンスでしか、自分の存在を示すことが出来なくなったのだ。

 おいちゃんは、すでに故人である。おそらく死んでから、自分の過ちに気づいたのではなかろうか。今頃あの世で反省していることだろう。

1,
 喜多方ラーメンを食べに行った時の話だが、あの時は東京から喜多方までJRを利用した。
 上野から新幹線に乗り、郡山で下車。そこから磐越西線に乗り換え喜多方に向かった。
 当初、東武日光線で会津まで行こうかと思っていた。ところが調べてみると4時間半ほどかかる。「そんなにかかるのならJRの方がいい」ということで、新幹線ルートを選んだのだが、乗り換えの待ち時間などを含めると、時間はあまり変わらなかった。

2,
 新幹線の中で、隣に座っていた男性から声をかけられた。
「どちらまで行くんですか?」
「郡山で降りて、喜多方に行きます」
「どちらから来られたんですか?」
「北九州からです」
「えっ、北九州から!?」
 よほど九州人が珍しかったのか、驚き方が尋常ではなかった。
 郡山で降りるまでの短い時間、その方と話をしていた。仙台の方だった。出張で東京まで行っていて、その帰りだという。
 降り際に、
「仙台も良い所ですから、ぜひ来て下さい」
 と言われ,
「はい」
 と答えておいた。
 あれから30年経つのだが、いまだにその約束は果たせていない。

3,
 郡山では、二時間ほど待たされた。まだスマホなどなかった時代だ。友人と二人、することもなくボーッとしていた。

4,
 郡山のホームで汽車を待っている間、ぼくは「ここは空気が違うな」と思っていた。東京は北九州と変わらず、晩秋の空気だったのだが、郡山は既に冬の空気なのだ。『夜空ノムコウ』の歌詞の中にある、「冬の風のにおい」がしていたわけだ。
 北九州と東京は、さほど緯度が変わらないのでわからなかったが、さすがに東北だと緯度が変わってくる。そのため空気も違ってくるのだろう。

5,
 喜多方に着いた日の夜、K君の家族と駅前の居酒屋に行った。10時頃まで飲んで、駅前のホテルに泊まった。
 翌午前中、馬車に乗り市内観光。それを終えてから待望の喜多方ラーメン。その後、バスで山形との県境にある温泉まで行き、そこで泊まった。

6,
 そこに行って、改めて東日本は日が暮れるのが早いということに気がついた。
 確かに北九州から東京に出た時は、時差を感じてはいた。しかし街全体が明るく、人通りも多いので、そこまでの違和感はなかった。
 喜多方に着いた日もそうだ。泊まったのが駅前のホテルだったため、街は明るく、賑やかだった。だからそれは感じなかった。
 しかし、その日泊まった場所は山手で、街灯が少なかった。そのため午後5時には真っ暗になっていた。さらに周りは人通りがなかったため、さながら深夜のようだった。

7,
 その温泉宿で驚いたのが、道沿いにある立て看板だった。そこにはなんと『熊注意』と書いていたのだ。
 せっかく森閑とした、温泉宿の周辺を散策しようと思っていたのに、熊に襲われたら大変だ。しかたなく、ぼくらは宿で笑点を見たのだった。

8,
 40代に入ってから、ぼくは頻繁に山間部のドライブをするようになるのだが、例えば『鹿注意』や『猪注意』の看板は見たことはあるものの、『熊注意』は見たことがない。
 最近見た看板は『サルに注意』だ。もっともこれは市街地に貼ってあったのだが。

2002年2月8日の日記です。

 とにかく、今日はこの日記を早く書いて、早く寝ないと。明日は月二回ある早出の日なのである。
 一時間早く家を出るのだが、この一時間が体に及ぼす影響というのは実に大きい。
 まず、一時間早く家を出るということは、当然一時間早く起きなければならない。これで、完全に生活のリズムが狂ってしまう。
 朝食はいつもとらないからいいとして、困るのはトイレである。いつもトイレに入る時間は、早出の日の朝礼の時間にあたる。かと言って、一時間早くトイレに入って粘っても、そうそう出るものではない。やはり規則正しく、体は彼の訪れを告げる。
「おお、来た来た!!」
 しかし、ここで朝礼を抜け出すわけはいかない。おならすら我慢しなければならないのである。

 余談だが、以前読んだ本の中に「我慢したおならはどこに行くか?」という記事があった。そこには「我慢したおならは血液と混じる」書いてあった。おならのガスが混じるのか、臭素が混じるのかは書いてなかったが、もし臭素のほうが混じるとしたら、ほとんどの人の血は臭いはずだ。おそらく、おならを我慢したことがない人なんていないと思う。
 それを読んでぼくは、「赤十字も大変だ」と思ったものである。
もしかしたら、赤十字の方は血液の質を臭いで決めているのかも知れないな。臭いの少ないほうから、「イロハ」順にランク付けし、「この血は無臭だから“イ”。うっ、こ、この血は最悪、“へ”だ!」などとやっていたりして。

 閑話休題。
 ここで我慢するから、リズムが狂ってくる。次の周期に無事トイレに行ければいいのだが、たいがい接客や作業でそのタイミングを逃してしまう。
 そうなると、正しいリズムに戻すのに、数日かかってしまう。「やっと戻ったなあ」と思っていると、次の早出の日がやってくる。そこでまたおならを我慢しなくてはならない。悪循環である。こうやってぼくの血は汚れていく。

 ほかに、汚い空気を一時間よけいに吸う、という害もある。
 店というのは、人がたくさん集まる場所であるから、当然空気は汚れている。換気設備があるじゃないか、という人もいるだろう。しかし、換気設備というのは、店内の空気を吸い取るだけの設備である。決して新鮮な空気を供給するものではない。つまり、換気扇は空気清浄機ではない、ということである。

 ところで、店内の空気というのは、人の吐き出す二酸化酸素だけで汚れるわけではない。そこには、ホコリ、動物の毛、ウィルス、商品から発するさまざまな臭い、ジジイの屁などが入り混じっている。そんな汚れた空気を一時間も多く吸うとなると、当然頭も痛くなってくる。仕事の終わった後の虚脱感、きっとそこからくるのであろう。

 とにかく、明日はこんな状態になるのだから、今日はしっかりと寝だめをしておかなければならない。ということで、終わりです。

2006年2月16日
 春の転勤で、今の勤務地を離れることになる。
 その前に一度書いておきたい人物がいる。それは、この日記をつけ始めた頃に頻繁に登場していた、酔っ払いのおいちゃんである。

 一昨年の12月29日を最後に、おいちゃんはこの日記に登場してない。
 まあ、その日の日記を読めばわかることだが、その前日においちゃんはゴミ収集所に火を付けて逮捕されている。だから今は刑務所にいるのかというと、そうではないらしい。
 それから1、2ヶ月して、おいちゃんはひょっこりと店に現れたとのことだった。珍しくシラフで、色つやのいい肌をしていたという。だが、現れたのはそれ一回だけだった。
 その後、街中を自転車に乗って大声を張り上げながら駆け抜けて行ったとか、川べりで大の字になって寝ていたとかいう何人かの目撃談を聞いたのだが、店には現れていない。

 ということで、ぼくはおいちゃんのことを忘れかけていた。

 ところが、おいちゃんの記憶というのは、そう易々と消えるものではない。
 今年の正月に起きた、下関駅の火事のニュースを見た時のこと。ぼくは反射的に一昨年の火事のことを思い出し、
「もしかして、火を付けたのはあのおいちゃんじゃないか?」
 と思ったのだった。だが、犯人の名前はおいちゃんの名前ではなかった。さすがのおいちゃんも、そこまで行動範囲は広くないということだ。

 さて、それからしばらくして、あるパートさんからおいちゃんの最新情報を聞いた。
 その情報とは、「おいちゃんが死んだ」だった。
「えっ、死んだと?」
「うん、そうらしいよ」
「この冬は寒かったけ、凍死でもしたんかねえ?」
「さあ?」
 それを聞いて、ぼくは「これでこの町は平和になる」と安堵感を覚えると同時に、一抹の寂しさを感じたものだ。

 ところが、今日また新たな情報が入った。
 おいちゃんが自転車に乗って、大声出して走っていたというものだった。まさか、幽霊が自転車に乗って走っていたわけではないだろう。
 いったいどっちが本当のことなんだろうか?

 この店に移ってきてから、最初は酔っ払いのおいちゃんに、最後はそのおいちゃんの影に、振り回されたことになる。
「結局あのおいちゃんが、この町の思い出になるのか…」
 そう思うと、複雑な気持ちになる。

2003年2月17日の日記です。

1,
 ぼくが通った小学校は、制服がなく、みな私服で学校に行っていた。もちろん男子は、夏は半ズボン、冬は長ズボンをはいてくる者がほとんどだった。

 ところが隣の地区の小学校は違っていた。
 そこは制服着用だった。ぼくたちの学校と同じく集団登校だったが、同じ服を着た集団が歩いている姿は異様なものがあった。冬も半ズボンをはかなくてはならず、寒さはハイソックスでしのいでいたようだ。
 ぼくたちはそれを見るたびに、「あんな格好で寒くないんかのう」などと言っていた。ぼくたちは長ズボンだけでは耐えきれず、ズボン下をはいていたのだった。

2,
 ぼくは当初、ラクダ色のズボン下をはいていた。地が厚くて暖かいのだ。ところが、体育の着替えの時に周りを見てみると、みな白いズボン下をはいている。
「これはいかん」と思ったぼくは、さっそく母にねだり白のズボン下にしてもらった。しかし、白のズボン下はラクダのそれに比べると地が薄く、寒かった。慣れるまでにけっこう時間を要したものだった。

3,
 中学・高校はもちろん制服着用だった。ところが、それまで夏場は半ズボンで暮らしていたので、ちょっと困ったことになった。
 夏のくそ暑い時期に長ズボンは耐えられない。体育のある日などは、短パンになるので嫌でもブリーフをはかなければならない。
 その日は地獄だった。長ズボンでただでさえ暑いのに、ブリーフが通気を悪くし蒸れてしまう。おかげで、ならなくてもいい病気(皮膚病)にかかってしまった。

4,
 さて、その頃になると、さすがに冬場にズボン下をはいてくる者はいなくなった。『おっさん臭い』というのがその理由だった。
 ぼくは何度かシャレでズボン下をはいて学校に行ったことはあったが、継続はしなかった。寒さよりも、見た目を気にする年頃になったのだ。
 いくらズボンをはいていても、ズボン下をはくとお尻の部分が張ってしまうのでわかってしまう。女性がジーンズの下にガードルをはいているとすぐにわかるが、それと同じことである。

5,
 以来、ぼくはズボン下をはいたことがない。
 今は車で通勤しているのでそれほどでもないが、JRで通勤していた頃はやはり冬場は寒くてたまらなかった。充分厚着はしているものの、それは上半身だけのことで、下半身はズボン一枚だけだった。
 駅まで自転車で行っていたこともあるが、太腿を刺す風が痛かった。だが、「太腿用のサポーターでもしようか」と考えたことはあるものの、「ズボン下をはいて行こうか」と考えたことは一度もない。

6,
 小学生の頃、デパートやスーパーの肌着売場に行くと、マネキンにふんどしをはかせ展示していた。さすがに今はふんどしを置いている店は見かけなくなった。
 が、相変わらずズボン下は健在である。ラクダの上下をマネキンに着せている店もある。
『ももひき』『タイツ』など呼び名がいろいろあるようだが、いったいどう違うのだろう。どれもズボン下に変わりがないのだから、ズボン下で統一したらいいのに。

 それにしても、『タイツ』はやめて欲しいものだ。『タイツ』というと、ぼくはすぐに小学生の頃、女子がはいていた色気のないタイツを思い起こしてしまう。男はズボン下でいいじゃないか、ズボン下で。

2004年12月29日
「ごみに火を付け逮捕」
27日午後11時20分ごろ、〇〇区Y町3のごみ集積所から出火し、男が前に座っているのを発見した通行人が110番。
駆けつけた署員が住所不定、無職、H.T容疑者(65)を集積所の案内看板を焼損させた器物損壊容疑で現行犯逮捕した。H容疑者は酒に酔っており、容疑を認めているという。(〇〇署調べ)”
(12月29日付毎日新聞朝刊より)


このH.T容疑者、新聞に載るのは二度目である。
最初に記事になったのは、

「雨の日のVIP」
雨がシトシトと降る夜は、〇〇署員の不安の日だ。60歳くらいの男性が決まってやって来て、当直員を困らせるからだ。
署員によると男性は日雇い労働者らしい。
だが、最近は仕事がなく〇〇の街を自転車に乗り夜の寝床を探しているという。〇〇署に現れると酔っ払った上に死んだふりをして居座る。そして保護室で朝を迎える。彼にとっては警察署が格好のホテルとなる。
実は、男性は根気が必要な山芋掘りの名人。金が尽きると山で長さ1メートルはある自生の山芋を掘り、料亭と1本1万円で取引する。
「どこか彼の働く場所はないのかな。山芋を掘る根気で頑張ってくれれば」と、署の幹部は雨雲を恨めしそうに見上げている。”
 (2002年6月26日付毎日新聞朝刊より)


 ぼくの日記を長く読んでくれている人なら、ピンとくるだろう。そう、このH.T容疑者とは、ぼくの日記に頻繁に出てくる、『酔っ払いのおいちゃん』のことである。最近とんと顔を見せないと思っていたら、こういうところで活躍していたのだ。

 しかし、おいちゃんがこの日記に登場するのは、どのくらいぶりになるだろうか。
 調べてみると今年の2月8日と9日に『酔っぱらいブギ』というタイトルで書いていた。そこには、うちの男子従業員から外に放り出された、と書いている。おそらく、それがおいちゃんに関する日記で、一番最近のものだろう。

 それはそうと、知らない人がこの記事を見たら、おいちゃんは放火犯だと思うかもしれない。が、このおいちゃん、そんな大それた犯罪を犯すほどの根性は持っていない。
 おいちゃんのことを知る者は、おそらく「昨日の夜は寒かったので、たまたま居合わせたところでたき火をやったのだろう」と思うことだろう。
 もしくは「おいちゃん一流のパフォーマンスかもしれない」と思うかもしれない。
 おいちゃんは、年末から正月にかけて寒くなるという情報を、どこかで小耳に挟み、
「寒くなるんか。じゃあ、警察にでも泊めてもらうか」
 ということで、何かやってやろうとなったのかもしれない。
 とはいえ、警察も年末で忙しい。前回のように「死んだふりをして居座」っても、相手にしてくれないだろう。そこで、寒さを紛らわせることも考えて、火を付けたのかもしれない。そしてそれは、逮捕という形で成功したのだ。
 これでおいちゃんは、寒い年末年始を、暖かい留置所で過ごせるだろう。

 もし、警察が、本当においちゃんに罰を下すつもりなら、さっさと釈放すればいいのだ。それが、今のおいちゃんには一番効き目があるのだから。

2002年2月16日の日記です。

 この4月で今の会社に入って丸10年になる。この会社の面接を受けたのは、10年前の今時期だったと記憶している。
「あれからいろんなことがあったなあ」などと考えていると、ふと喜多方ラーメンが食べたくなった。

 10年前に喜多方ラーメンを食べたことがある。
 平成3年11月中旬、前の月にそれまで勤めていた会社を辞めていたぼくは、友人と東京に遊びに行った。
 別に東京で何かするために行ったのではない。ただ急に20代の自分に会いたくなったのだ。
 住んでいた高田馬場界隈、足繁く通った新宿、休みのたびに行っていた神田古書街、アルバイト帰りに歩いた銀座、野球の練習をした明治神宮、ミニライブをやった代々木公園、他に浅草や池袋などにも足を運んだ。

 ついでにというので、福島まで足を伸ばした。東京時代一番仲のよかったK君に会いに行ったのだ。
 K君はラーメンで有名な喜多方に住んでいた。上野から新幹線に乗り、郡山で下車、そこから磐越西線に乗り換え喜多方に向かった。

 喜多方の駅前はラーメン屋だらけだった。
 K君に聞くと、
「観光客相手の店ばかりで、味はイマイチ」
 ということだった。
「じゃあ、地元じゃどこがおいしいんか?」
 と訊くと、K君は一軒の中華料理店を教えてくれた。

 その日はK君と積もる話をし、ラーメンを食べたのは翌日だった。午前中馬車に乗って市内を観光した後、その中華料理店に行った。
 腹も減っていたので、ぼくらは大を注文した。しばらくしてラーメンが運ばれてきた。
 まずどんぶりを見てびっくり。直径が30センチ以上はあるのだ。中身もたっぷり入っている。ぼくはラーメンを食べる時はスープを残さないようにしているのだが、この時はさすがにスープまでは飲むことが出来なかった。
 味もよかった。さすがに地元の人の支持を得ているだけのことはある。郷愁を誘う味で、「これなら毎日でも食べれるな」と思ったものだ。

 とんこつラーメンで育ったぼくにとって、喜多方ラーメンは異質なものだった。味はどちらかというと和風で、麺は太い。もしそれをラーメンと定義づけるなら、九州のラーメンはラーメンではないだろう。
 逆に喜多方の人に言わせれば、九州のラーメンは異質だろう。もしそれをラーメンと定義づけるなら、喜多方のラーメンはラーメンではないと思うに違いない。

 翌日もこのラーメンを食べようかと思ったが、それはかなわなかった。
 K君が会津若松の観光に連れて行ってくれ、昼食は野郎ヶ前というところで、田楽を食べたのだ。これもおいしかった。
 昼食後喜多方に戻り、そのまま汽車に乗って東京に戻ったのだった。

 そうか、あれから10年経つのか。いまだにあのラーメンの味が忘れられないでいる。
 なかなか時間が取れないから、今時点で喜多方に行くのは不可能だ。でも食べたい。
 ああ、『どこでもドア』が欲しい。


※21年経った今なら、スーパーやコンビニで喜多方ラーメンを買えるんだけど、どれもあの時の味ではない。
 ああ、『どこでもドア』が欲しい。

このページのトップヘ