吹く風

人生万事大丈夫

2002年3月2日の日記です。

 ぼくは過去に二度入院したことがある。どちらも原因は、嘔吐と下痢だった。

 一度目は十数年前の夏だった。
 その日、ぼくは会社の仲のいい連中と、福岡の「海ノ中道海浜公園」に遊びに行った。
 朝、迎えに来た友人の車に乗り込んだ。6人乗りの車で、ぼくが乗ると満員になった。そこで困ったのが、荷物の置き場だった。どうしようかと迷った挙句、結局荷物はトランクの中に突っ込んだ。その荷物の中には弁当も入っていた。
 その日は、かなり暑く、その年で一番暑い日となった。太陽は車に照りつける。きっと冷房の入ってないトランクの中は、煮えたぎっていたはずだ。

 昼食時。その時弁当に異常はなかった。しかし、異常のない弁当が体の中に入ってから、体に異常がでてきた。
 帰りの車の中で、気分が悪くなった。
「悪い。ちょっと車停めて」
 ぼくは慌てて車を降り、近くにあった川まで駆けて行った。吐けるだけ吐くと、気分が楽になった。
「ごめんごめん。どうも車に酔ったらしい。もう大丈夫」
 車は出発した。5分ほどして、また気分が悪くなってきた。
「ごめん。また停めて」
 今度は草むらに吐いた。しかし、今度は気分は良くならず、かえって悪くなっていく。
 その後、何度か『車~草むら』を繰り返しているうちに、とうとうぼくは動けなくなった。

 ダウンした場所は、釣具店の入り口の前だった。
「もう動けんぞ!!」と、ぼくは大声で言って、大の字になって寝転んだ。
 店の人が出てきて「困ります」と言った。が、
「あんたが困っても、動けんもんは動けん!」
 と、ぼくは朦朧とした意識の中で言った。
 慌てて車の中から仲間が降りてきて、「すいません」と謝り、ぼくを抱えて車の中に連れて行った。
 彼らは「しんたさん、病院に連れて行くから、もう少し我慢しとって」と言い、病院を探してくれた。

 ぼくは車の中で寝入ってしまった。しばらくして「しかたない。ここにするか」という声がして、目が覚めた。そして、みんなに抱えられて病院に入った。そこで応急処置をしてもらった。
 先生は、日射病と食中りだと診断し、
「他の病院を紹介しますから、そこに行って下さい」と言った。
「先生、ここでいいですよ。治りそうだから、もう少しいさせてください」とぼくは頼んだ。
「そう言われてもねえ、ここは小児科ですよ」
「えっ!?」
 ぼくは返す言葉がなかった。しかたなく、病院を移動することにした。

2002年3月6日の日記です。

 今日は啓蟄である。昨年も似たようなことを書いたが、今日からまた半年以上の日々をさまざまな昆虫たちと過ごさなければならない。
 今年ぼくが目標としているのは、「アリの撲滅」である。
 春から夏にかけて、いつも台所はアリに占領されてしまう。大きいアリや小さいアリが、我が物顔に歩いている。砂糖ケースは、さながらアリの集会所である。
 団地の3階のどこに巣を作っているのかは知らないが、彼らは毎年確実にやってくる。今年こそどうにかしないとならないが、まだ具体的な作戦は立てていない。

 3年ほど前だったか、あるテレビ番組で、砂糖の周りにチョークで線を引き、その中にアリが入るかどうかの実験をしていた。チョークを引く前はたくさんのアリが砂糖にたかっていたのだが、チョークを引いたとたん、一匹のアリも砂糖に行こうとしなかった。チョークの中に入らないのだ。
 これはいいものを見たと思ったぼくは、さっそくチョークを買ってきて、玄関やベランダの出入口、窓などにチョークを引きまくった。
「よし、これでもう大丈夫」
 それから3日間は平和な日々だった。おそらくチョークの効果があったのだろう。そう思って、また家中にチョークを引きまくった。

 4日目のことである。
 今でもそうだが、ぼくは朝起きるとオロナミンCを1本飲むようにしている。飲んだ後はふたをしてゴミ箱に捨てているのだが、その日はふたを開けたまま畳の上に放置しておいた。
 仕事を終えて帰ってみると、ぼくの部屋のベランダの出入口から一筋の糸のようなものが見えた。その糸は、朝飲んだオロナミンCの空きびんまでつながっている。よく見ると、その黒い糸はアリの行列であった。空きびんはアリで真っ黒になっていた。
 ぼくは慌ててそのびんを掴み、洗面所まで持って行った。水道の蛇口を開け、びんを洗い流した。
大量のアリが流されて行く。中にはぼくの指から腕に伝って逃れようとしているアリもいる。ぼくは容赦なくそのアリも水に流した。
 部屋に戻ると、目標物を失ってさまよっているアリの大群がいる。そこに殺虫剤をかければいいのであるが、ぼくは殺虫剤の臭いが嫌いである。手で潰すのも気が進まない。蟻酸の臭いも嫌いである。
 ということで、ここでも水作戦を取った。水浸しにした雑巾で、アリの行列をなぞっていったのである。
 雑巾を洗うと、バケツの中にはたくさんのアリが浮かんでいる。ぼくはしつこくこの作業を繰り返し、アリを一掃した。チョーク作戦は失敗に終わった。

 昨年一昨年は『アリの巣コロリ』に頼っていた。アリの通り道に仕掛けておいたのだが、どのアリもよけて通る。
 きっと匂いが足りないのだと思ったぼくは、『アリの巣コロリ』の中に砂糖をまぶしてみた。ようやくアリは『アリの巣コロリ』の仕掛けの中に入るようになったが、肝心のえさを持っていかない。どうも砂糖だけを食べているように見える。
 しばらくするとアリは再びそこをよけて通るようになった。おそらく砂糖がなくなったのだろう。
 そこで今度は、『アリの巣コロリ』にオロナミンCをかけてみたが、結果は同じで、アリは寄りつきもしなかった。

 さて今年はどうしたものか。
 チョークや『アリの巣コロリ』はきかないし、かといって家中水浸しにしておくわけにもいかない。困ったものである。
 しかし、このままにしておくわけにはいかない。何か有効な手段を考えて、きっとアリたちを「ギャフン」と言わせてやる。

2002年3月11日の日記です。

 うちのパートさんから、面白い話を聞いた。
 その方の娘さんは中学1年生なのだが、同じクラスにすごい男子がいるという。

 先日、英語のテストで、
「次の文を過去形にしなさい。
 I go to Tokyo.」
 という問題が出た。

 何のことはない問題である。英語の苦手なぼくでもわかる。
 しかし、そこは英語を始めたばかりの中学1年生。知らなかったのか、とっさに答が出なかったのか、問題を読み違えたのか、は知らないが、その子の頭は実に粋な答を導き出した。

「I go to Edo.」

 英語の先生は、この答に二重丸をあげたかったそうだ。しかし、教育上そういうわけもいかず、バツをつけたという。

 ぼくはこれを聞いて笑わなかった。笑いを通り越して感心していたのだ。もしこの子に会ったら、肩を叩いて「よくやった!」と言うだろう。
 まあ本人は、笑わせようとしてこの答を書いたのではないだろう。おそらくその子なりに、一生懸命考えたのだろう。しかし、そう考えることは、その答に至るまでの過程を想像させる面白さをも与えてくれる。

「wasを使うんだったかなあ?それともwentだったかなあ?
 過去形、過去形・・・。うーん、困ったなあ過去形、過去形・・・。過去か・・・。
 そういえば、『ドラえもん』は未来や過去を往ったり来たりしてるなあ。ドラえもんか・・・。
 あ、そうだ!
 この『I』は『ドラえもん』のことなんだ!
 ドラえもんが、タイムマシンを使って過去の東京に行くということなんだ。
 それなら簡単だ。東京の過去は江戸だ。そっかそっか、簡単だ~♪アイ・ゴー・トゥ・エド、と。
 おそらく、この問題がドラえもんのことと気がついた奴はいないだろう。へへ、先生にほめられるなあ。『○○君よくやった』ってね。照れるなあ。おれって天才だぜ!」

 その時の彼の笑顔が見えてくるようである。
 しかし、もし彼がそういうふうに物事を考える子だとしたら、将来運転免許をとる時に、筆記試験で落ちるかもしれないなあ。裏の裏を読む性格が、きっと災いするだろうから。
 
 ところで、彼は、
「次の文を未来形にしなさい」
 という問題が出た時に、彼はどう答えるんだろうか?それを想像するのも楽しくなる。

 ということで、今日のタイトルは、「天才児現る」にしておこう。

2003年3月7日の日記です。

 その夜、食事が終わってから、大阪を案内してもらった。大阪の地理がまったくわからないので、どこを歩いているのかわからない。しばらく行くと、そこに有名な風景があった。
 グリコの看板。テレビや映画で見たことはあるが、実際に見るのは初めてだった。有名なものを見せられると、変に感動するものである。

 その後で、法善寺横丁にも行った。実に風情があっていいところだ。
 ぼくは線香臭いところが好きである。線香のにおいを嗅ぐと、何か落ち着くのだ。東京にいる時、月一度浅草寺に行っていたのも、線香のにおいを嗅ぐためだった。
 もしまた大阪来るようなことがあれば、法善寺横丁には必ず行きたいと思ったものだ。しかし、一人では行けないだろう。前に一度失敗しているし、その出張の時も結局は人の後ろを歩いただけだったからだ。

 そういう意味では、東京の出張は楽だった。
 あるメーカーさんが「今度、東京で新製品発表会をやりますので、ぜひ来て下さい」と言ってきた。
「東京のどこ?」
「新宿のセンチュリーハイヤットです。場所がわからないと思いますんで、今度地図を持ってきます」
「いや、別にいいよ」
 東京の地理は、そこに住んでいた頃にいつも歩き回っていたので、充分にわかっている。
『新宿』『センチュリーハイヤット』、この二つのキーワードを聞いたとたん、イメージの中ではそこに行き着いていた。

 その東京出張の時は、発表会は午後2時からだったので、そんなに早く出る必要もなかった。朝9時に家を出、バスで福岡空港に向かった。搭乗手続きも難なく終わり、12時には東京に着いていた。
 モノレールから山手線の乗り換えも慣れたものだった。新宿駅に着いてから少し時間があったので、久しぶりに中央公園に行ってみた。それだけ余裕があったわけだ。
 東京を離れてかなりの時間がたっていたので、街の風景もかなり変わっていたのだが、戸惑うことはなかった。やはり土地勘のあるところは違うものだ。当たり前のことであるが、大阪で感じた地理的な苦手意識はまったくなかった。

 その日の宿は、何とそのセンチュリーハイヤットだった。25階のツインルームを一人で借り切っていた。もちろんメーカー負担である。一泊だったのだが、一室3万円ほどかかったと言っていた。こんなホテルに泊まったことはそれまでもなかったし、これからもおそらくないだろう。
 それから3年ほどして再び東京に行ったのだが、その時はお茶の水のカプセルホテルに泊まった。その時は1週間滞在したが、その料金は全部で3万円ほどだった。

 さて、今の会社に入ってからは出張というのがまったくない。まあ、あっても行きたくはない。どうせ場所は博多近辺だろうから、当然日帰りだろう。仮に複数日の出張だったとしても通いになるから、疲れるだけである。
 やはりぼくには出張なんて似合わない。慣れた現場で仕事をしているのが、変に気を遣わなくていいぶん気が楽である。

2003年3月6日の日記です。

 その会社に入社して10年近くがたっていた。
 当時ぼくは毎月一回、広島に会議に行っていた。会議といっても数字の詰めなどといったハードなものではなく、主に次月の新製品の確認や、それを売るための販促計画などを練っていた。
 しかし、月一回だけの出張とはいえ、回を重ねるごとに、ひと月がその出張の日を中心に回っているように感じてきだし、嫌気がさしていた。
 さらに日帰りというのが、嫌気に拍車をかけた。新幹線でたったの1時間の距離、それも座っているだけじゃないか、と思われるかもしれない。しかし、体は小倉から広島まで約200キロ、往復で約400キロの距離を移動しているのだ。ただ座っているだけとはいえ、確実に負荷はかかっている。日帰りだと、この負荷が、翌日の仕事にモロに響くのだ。

 そういった時に、大阪出張の話が出た。あるメーカーが、大阪で勉強会をやるので来てくれというのだ。
 メーカーの勉強会というのは、勉強会というほどの勉強会ではない。ほとんどが接待旅行である。しかも、一泊ときている。
 広島出張の時は、上記の理由から「行けるかどうかわかりません」などと気のない返事をしていたのだが、この話には飛びついた。とにかく一泊というのがいい。
 大阪にはそれまで三度しか行ったことがなかった。
 最初は小学3年生の時だった。この時は京都を主にまわったため、大阪に着いたのは夜で、梅田駅でうろついただけだった。
 二度目は中学の修学旅行だった。しかし、この時も大阪はバスで流しただけだった。
 三度目は東京時代。帰省中に京都に立ち寄った。一人で京都の街をぶらぶらしていたら、腹が減ってきた。せっかくだから、食い倒れの街に行ってみようじゃないかと思い、さっそく電車で大阪に向かった。ところが大阪に着いたはいいが、地理がわからない。仕方がないので、大阪駅周辺で何か食べることにした。結局食い倒れの街大阪でぼくが食べたのは、吉野家の牛丼だった。
 ということで、大阪出張は、ぼくの生涯4度目の大阪探検になった。

 出張の前の日のことだった。ぼくは布団の中で、それまでの大阪探検をいろいろと思い出していた。ところがそれが災いしたのか、眠れなくなった。
 気がつけば午前4時を回っていた。午前6時半には家を出なければならない。
「まあ、大阪まで新幹線で寝ていればいいや」、と思ったとたんに眠りについてしまった。

 目が覚めた。時計を見た。
「ええっ?!」
 8時半。確実に遅刻である。ぼくは先方に電話を入れ、遅れる旨を伝えた。
「何時頃になりそうですか?」
「昼までには何とか着くと思うのですが」
 電話を切ってから、あわてて家を飛び出した。通りに出てタクシーを拾おうとした。ところがこんな時に限って、タクシーが1台も通らない。結局タクシーを拾ったのは20分後だった。そのおかげで、予定していた新幹線にも乗り遅れた。

 新大阪に着いたのは12時を過ぎていた。
 先方に電話を入れた。
「今新大阪に着きました」
「じゃあ、そこから日本橋に来て下さい」
 困った。先に書いたとおり、ぼくは大阪の地理がわからないのだ。その日本橋に行くすべを知らない。先方に詳しい道順を聞き、その辺にいる人に電車の乗り場を聞いて回った。
 なんとかたどり着いたのは、午後1時前だった。そこに集まっていた人たちは、食事も終わりコーヒーなどを飲んでいた。午後からの勉強会、ぼく一人だけ腹を空かしていた。

2003年3月5日の日記です。

 翌朝7時半に旅館を出、平和記念公園の中を足早に歩きながら仕事場に向かった。
 会議の始まる10分に店に着いた。もう他の人は揃っていた。
 ぼくが来たのを確認してから、「じゃあ、行こうか」と主任は言った。
『行こう?ここで会議するんじゃないのか。ということは、ちゃんとした会議室でやるのか』
 そんなことを思いながら、ぼくはみんなの後をついて行った。みんなは店を出て、隣のビルの階段を上っていった。そこは喫茶店だった。
『まさか喫茶店で会議をやるんじゃないだろうな』
 みんなはバラバラに座った。
「モーニング下さい」と主任が言った。その後、各自注文を始めた。

『さて、会議か』と思いきや、なんと主任以下全員が、店に置いてある新聞や週刊誌を取ってきて読み始めた。新聞といってもスポーツ新聞である。週刊誌といってもエロ本あり、マンガありである。
 声を出す者はいなかった。が、時折笑い声が聞こえる。
 9時までこの状態が続いた。会議ではなく、ただの朝食会だった。

 そのことがあってから、ぼくのその店に対する見方は変わっていった。
「七三分けの刈り上げ」だが、主任は長髪系で真ん中分けだった。
「接客の報告書」、そういう紙はあったが、書いている人を見たことがない。
「お辞儀45度」をやっていたのは最初に会った人だけで、他の人はいい加減なものだった。
「玄関で土下座」などするのはよっぽどの時だろう。
「休みが少ない」、みな有給休暇を気にしていた。
「朝が早く、夜が遅い」、朝は早いがこんなふうである。夜も仕事が終われば、みなさっさと帰っている。
 しばらく勤めていると、事実が見えてきた。騙された、というよりそれらの話は、きっと「そういう人がいた」とか「そういうことがあった」ということが、広まっていく過程で誇張されていった話なのだろう。

 心にのしかかった重みがとれた。ようやく冷静さを取り戻したぼくは、『これで1ヶ月過ごせる』と思った。
 ところが、そこに出張して2週間ほどたった頃、会社から「戻ってこい」という連絡があった。
 ようやくその店に慣れた頃だったので、ちょっと惜しい気がした。

 2日後、ぼくは新幹線の中にいた。
 いったいこの出張は何だったのだろうか。世間で「厳しい」と噂されるその会社の中身が、実はいい加減なものだったということがわかっただけで、他に何も得るものはなかった。会社に戻ってから出張の報告書を提出しなければならなかったのだが、何と書いていいものか、さんざん悩んだものだった。

 その後、何度か広島に出張したのだが、最初の出張のことがあったので、どんな会議があろうとも気は楽であった。しかし、朝早く家を出なければならないことは辛かった。

2003年3月4日の日記です。

 広島に着いたのは、昼前だった。
「八丁堀の次に紙屋町という電停があるから、そこで降りたらいい。そごうがあってその横に広島球場があるからすぐにわかるよ」
 上司から言われたとおりに、駅から路面電車に乗った。
 しばらくして八丁堀に着いた。
 さあ次だ。上司の言っていたように、そごうのマークが見えてきた。なるほど、その向こうに広島球場のナイター照明塔が見える。「ここが紙屋町か。都会やん」と思いながら、ぼくは電車を降りた。

 研修先はすぐにわかった。
 そこに行くと、男性従業員が一人いた。
「いらっしゃいませー」
 噂に聞いたとおりだった。お辞儀の角度が45度になっている。ぼくもこれをさせられるのかと思うと、気が重くなった。
「あのー…」
「はいっ!」
「北九州から来たんですが」
「ああ、聞いてます。たしか、しんたさんでしたね」
「はい」
「今日からですね。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「主任を呼びますので、ちょっとお待ち下さい」

 少し間をおいて、店の奥から主任が出てきた。
「しんた君か」
「はい」
「ここの責任者をやっとるYじゃ。よろしゅう」
「よろしくお願いします」
「あんたんとこから、もう一人研修生が来とるで」
「あ、そうですか」
「ま、あんたも頑張りんさいよ」
 初めて聞く、生の広島弁だった。

 さて、もう一人の研修生というのは、ぼくが地元でアルバイトをしていた頃の先輩Nさんだった。
 ぼくは主任に挨拶をしてから、さっそく仕事についた。ぞうきんを持って商品の掃除をしている時だった。後ろから「お、しんたやないか」という声がした。先輩のNさんだった。
「お前、どうしてここにおるんか」
「ここに行けと言われたけおるんよ」
「そうか。ここは厳しいぞ。○○屋とはまったく違うけの。それだけは覚悟しとったほうがいいぞ」
「やっぱり」
 先ほどのお辞儀の角度といい、今のNさんの言葉といい、○○屋にいた時に聞いた噂はどうも本当らしい。
『こんなところで1ヶ月か…』
 そう思うと、○○屋を辞めるんじゃなかったという後悔の念がわいた。

 仕事が終わり、終礼時に主任が言った。
「明日は早朝会議じゃけ、8時に集合」
 おいでなすった。さっそく早出の洗礼である。
 ぼくとしては、会議などはどうでもよかったのだが、早出だけは勘弁してほしかった。○○屋にいる時は、9時半までに店に入ればよかったので、朝は8時半まで寝ていた。8時といえば、10日前ならまだ布団の中にいる時間だった。そんな時間に会議に行かなければならないとは。まさに地獄である。

2003年3月3日の日記です。

 前の会社にいた頃、ぼくはよく出張に行っていた。たまには東京や大阪という遠方に行くこともあったが、主に行ったのは近場の広島や博多だった。

 その広島に初めて行ったのは、入社してからわずか7日後のことだった。
 上司から呼ばれた。
「しんた君、明日から広島に行ってきてくれんかね」
「え、広島にですか?」
「ああ。そこにある店でしっかり勉強してきてくれ」
「一人で行くんですか?」
「ああ」
「・・・。で、期間はどのくらいですか?」
「期間・・。そうやねえ、1ヶ月ばかりかなあ」
「1ヶ月もですか?」

 困ったことになった。就職する前にアルバイトをしていたところで、広島のその店の話をさんざん聞かされていたのだ。
「社員はみな七三分けで刈り上げにしなければならないらしい」とか、
「一人接客をするたびに報告書を提出しなければならない」とか、
「お辞儀の時、45度体を曲げないと文句言われる」とか、
「お客さんの家に行ったら、玄関で土下座しないとならない」とか、
「休みが少ない」とか、
「朝が早く、夜が遅い」とか、
とにかく厳しい店だということだった。そんなところに1ヶ月もいるのは辛い。

 また、当時ぼくが持っていた広島のイメージがひどかった。映画『仁義なく戦い』の舞台になったくらいの街だから、当然怖いところだというものだった。つまりぼくの頭の中の広島の図は、『=やくざ』となっていたのだ。
 その頃、北九州市内で発砲事件があった。ニュースでは暴力団の抗争だと言っていた。北九州市内でもこの状態だ。『=やくざ』の広島では、こんなことが毎日起こっている思っていた。

「もっと短くならんのですか?」
「ならん」
「どうしても行かないけんのですか?」
「どうしてもって、何か広島に行きたくない理由でもあるんかね」
「ええ、ちょっと」
「別れた彼女でもおるんかね」
「いや、そういうことじゃないですけど」
「じゃあ、どうしてかね」
「気が進まんとです」
「えっ、何で?」
「だってやくざの街なんでしょ?」
 さすがに、厳しい店と聞いているので行きたくないとは言えなかった。

「ははは、そんなことか」
「・・・」
「あんた『仁義なき戦い』見たんやろ」
「はい」
「あれは映画の世界での話」
「でも、実話だと言っていましたよ」
「そんなの昔のことやろ。今はそんなことはない」
「やっぱり行かないけんですか?」
「ああ、決まったことやけ。まあ、頑張ってきてくれ」
「・・・はあ」
 最後に上司は言った。
「広島カープの悪口だけは言うなよ」

 翌朝、ぼくは新幹線に乗り、広島へと向かった。3月初旬、まだまだ冷たい風が吹いていた。

2001年1月24日
 うちの職場の女性が、「私が出た小学校が廃校になる」といって嘆いていた。
 その学校の名前が面白い。
「魚目(うおのめ)小学校」というらしい。
 彼女が通った中学も、同じく魚目だったという。
 なんとも痛い9年間だったようだ。

2001年1月25日
 昨日の日記に書いた「魚目小学校」の件で、問い合わせがありました。
 質問1:どこにあるんですか?
   答:五島列島にあるそうです。
 質問2:ひょっとして、その学校の先生の名前は『いぼころり』先生ですか?
   答:残念ながら、そんな先生はいませんでした。
 ということでした。

2001年4月22日
 今日会社の表玄関に張り紙がしてあるのに気がついた。「行方不明の飼い猫を探してくれ」というものだった。
 黄色の首輪をしていたとか、耳が欠けているとか、いろいろと猫の特徴が書いていた。
「6㎏ある」と体重も書いてあった。が、はたして歩いて(走って)いる猫を見て、
「おっ、あの猫は6㎏あるぞ」
 と、わかる人がいるだろうか?猫も動き回るわけだから、当然体重も減るだろうし。
 その張り紙には、ご丁寧にその猫の写真までついていた。写真に撮られるのが嫌なのか、大変迷惑そうな顔をしている。きっとその飼い主が嫌で逃げたのだろう。

2001年4月28日
 今日顔なじみの警察の方が来て、
「昨日は大変やったよ。自殺志願者がおってねえ。ビルから飛び降りようとしたところを、取り押さえたんよ。下には消防署が来てマットを準備しとったけど、飛び降りられたら一生悔いが残るけねえ」
 と言っていた。
「昔住んでいた団地が、今自殺の名所になってるんですよ」
 とぼくが言うと、
「それは霊が呼ぶんよ。以前○○公園の池の前にあった木で自殺者が出た。そしたら続けてそこで首吊る人が出てねえ。結局その木を切れということになって切ったけどね。飛び降りも同じ。霊が呼ぶんよ」
 と言った。
 木は切れても団地を壊すわけにはいくまい。

2001年5月10日の日記です。

1、
 鉄人28号を見ていて、いつも不思議に思っていたことがある。それは、正太郎君は自分でリモコンを操作しているのに、どうして「鉄人、頑張るんだ!」と言うんだ?ということだ。
 鉄人は別にアトムみたいに意志をもっているわけはなく、リモコンがなかったらただの人形なのだ。つまり頑張れるかどうかは、正太郎君の操作の腕にかかっているわけで、けして鉄人が頑張るわけではない。
 おまえが頑張れよ、正太郎君。

2、
 昔の漫画というのは戦争を題材にした物が多かった。
「ゼロ戦ハヤト」はもろそれだった。
「W3」では主人公の真一の兄光一は秘密諜報部員で、A国と戦っていた。
「ビッグX」はドイツらしき国(ナチス同盟)と戦っていた。
「マグマ大使」や「遊星仮面」は宇宙人と戦争やっていた。
「男一匹ガキ大将」は米軍と戦争をやった。
 当時は戦後20年、「戦争はうんざりです。もう戦争しません」と宣言してあまり時間も経ってない時期である。なぜこういう内容のものが流行ったんだろう?
 しかし、時間が経つにつれ反戦物が多くなるというのも謎である。

3、
 オバケのQ太郎は「少年サンデー」の他、小学館の学習雑誌にも連載されていたが、「小学1年生」と「小学6年生」の内容は同じだったんだろうか?
(そういえばオバQの中で、伸一が隣の神成さんに「ビートルズは立派な芸術です」と言い切る場面があったが、今考えると卓見だったなあ)

 3月の思い出といえば、高校1年時の3月に受けた追試に尽きる。
 ぼくは元々、理科系の教科は得意ではなかった。
 小学生の頃は実験が嫌いでサボったこともあった。
 中学生になっても同じで、成績はよくなかった。おかげで、高校受験の時、志望校を1ランク下げなければならなかった。

 その状態で入った高校も当然理科系の成績は芳しくなく、生物、化学両教科はいつも欠点前後を彷徨っていた。特に、生物は夏休みの宿題であった植物採集を提出しなかったため、教師から反感を買っていた。

 1974年3月、学校から帰ってきた時、電話が鳴っていた。慌てて出てみると、生物の教師からだった。
「しんた君かね。生物のFだけどね」
「はい」
「君には追試になったよ」
「えっ!?」
「3学期の成績はまあまあだったんだけどね、年間通しての成績がよくなく、夏休みの宿題も提出してなかったのでね」
「範囲はどこですか?」
「この1年で習った全てだ」
 目の前が真っ暗になった。『来年も1年生』という思いが駆けめぐった。
 それから1週間、必死になって、『ミトコンドリア』や『デオキシリボ核酸』といった、わけのわからない言葉と格闘したのだった。

 1週間後、追試会場に行くと、20人ほどの生徒がいたが、そのほとんどか英語や数学といった主要科目で、生物で追試を受けているのは、2人しかいなかった。その人も、植物採集を提出しなかったと言っていた。

 1週間のヤマが当たり、追試は高得点でクリア出来た。が、その後、再び生物教師から連絡が入った。
「追試の答合わせをやるから、来なさい」
 仕方なく、ぼくは学校に行き、面白くもない生物の授業を2時間受けたのだった。

このページのトップヘ