2002年3月21日の日記です。
『道の達人』と、ぼくが名づけている人たちがいる。例えば歩道で、例えば店の通路で、その人たちは活躍している。
何の達人なのかというと、彼らは、後ろを歩いている人から抜かされない達人なのだ。
別に早歩きをしているわけではない。どちらといえば、ゆっくりと歩いている。達人を抜くスペースも十分にある。だけど、後ろの人は抜けないでいる。
達人は、後ろの人が急いでいる時に、その技を披露する。こちらが右に行こうと思った時は微妙に右に寄り、左に行こうと思った時は微妙に左に寄る。曲がるかと思ったら立ち止まり、立ち止まるかと思えば歩き出す。その動きは変幻自在で、実に絶妙なタイミングで後ろの人を翻弄する。
最終的にはこちらが大回りして抜くことになるのだが、その間のこちらの精神的疲労は、かなり大きなものがある。つまり、試合に勝つことは勝ったが、勝負に負けたと言うことである。
一方の達人のほうは、そういうことをまったく意識してないのか、抜かれても平然としている。こちらが達人の後ろを歩いていることさえ気づいてないようである。
しかし、だまされてはいけない。彼らの研ぎ澄まされた感覚は、こちらの動きを完全に把握している。しかも、心の中まで見透かしているのである。
さて、道の達人とは、どんな人たちなんだろうか?
仙人のような人たちなんだろうか?
それとも修行者のような人たちなんだろうか?
はたまた武術家のような人たちなんだろうか?
どれも違う。『道の達人』は普通の人なのだ。普通のじいさんやばあさんであり、普通の主婦である。
その普通のじいさんやばあさんや普通の主婦たちは、どこでこの修行を積んだのだろうか?
また、その修行法とはどんなものだったのだろうか?
まずその修行法だが、この修行はどこででもできるものである。特に人通りの多い商店街やデパートやスーパーの中など、なるべく人の多く集まるところがよい。バーゲンなどで鍛えていくのである。
次に修行法だが、特別な修行法があるのではない。自我というものを助長すればよいのである。つまり、わがままであれということだ。世間に対して、唯我独尊を貫くことである。
それにしても、『道の達人』は言い過ぎかなあ。そんな立派なものではない。『歩道の達人』とか『通路の達人』にしておこうかな。
しかし、どうでもいいけど、人の多く集まる場所ではさっさと歩いてくれよ。
『道の達人』と、ぼくが名づけている人たちがいる。例えば歩道で、例えば店の通路で、その人たちは活躍している。
何の達人なのかというと、彼らは、後ろを歩いている人から抜かされない達人なのだ。
別に早歩きをしているわけではない。どちらといえば、ゆっくりと歩いている。達人を抜くスペースも十分にある。だけど、後ろの人は抜けないでいる。
達人は、後ろの人が急いでいる時に、その技を披露する。こちらが右に行こうと思った時は微妙に右に寄り、左に行こうと思った時は微妙に左に寄る。曲がるかと思ったら立ち止まり、立ち止まるかと思えば歩き出す。その動きは変幻自在で、実に絶妙なタイミングで後ろの人を翻弄する。
最終的にはこちらが大回りして抜くことになるのだが、その間のこちらの精神的疲労は、かなり大きなものがある。つまり、試合に勝つことは勝ったが、勝負に負けたと言うことである。
一方の達人のほうは、そういうことをまったく意識してないのか、抜かれても平然としている。こちらが達人の後ろを歩いていることさえ気づいてないようである。
しかし、だまされてはいけない。彼らの研ぎ澄まされた感覚は、こちらの動きを完全に把握している。しかも、心の中まで見透かしているのである。
さて、道の達人とは、どんな人たちなんだろうか?
仙人のような人たちなんだろうか?
それとも修行者のような人たちなんだろうか?
はたまた武術家のような人たちなんだろうか?
どれも違う。『道の達人』は普通の人なのだ。普通のじいさんやばあさんであり、普通の主婦である。
その普通のじいさんやばあさんや普通の主婦たちは、どこでこの修行を積んだのだろうか?
また、その修行法とはどんなものだったのだろうか?
まずその修行法だが、この修行はどこででもできるものである。特に人通りの多い商店街やデパートやスーパーの中など、なるべく人の多く集まるところがよい。バーゲンなどで鍛えていくのである。
次に修行法だが、特別な修行法があるのではない。自我というものを助長すればよいのである。つまり、わがままであれということだ。世間に対して、唯我独尊を貫くことである。
それにしても、『道の達人』は言い過ぎかなあ。そんな立派なものではない。『歩道の達人』とか『通路の達人』にしておこうかな。
しかし、どうでもいいけど、人の多く集まる場所ではさっさと歩いてくれよ。